2011年06月24日

台風

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  声を台風に飛ばされながら笑う友 背後はやけに広々として
                      花山 周子

 
台風5号が石垣島に近づいてきた。前回、2号が石垣に接近したときには東京にいたので、今度こそ(?)と張り切っているが、規模としてはあまり強くないようだ。
 マンゴーやパイナップルなど、農作物のことを考えると、なるべく風雨が強くないよう、祈るばかりである。わが家のバナナも、ようやく実がついたばかりなので、何とか持ちこたえてほしい。
それにしても忙しい。いろいろな仕事を引き受けすぎたのが原因である。昔から自分はそうだったなぁ、と反省するばかり。断れなくて引き受けるのではなく、その仕事が面白そうで、他の人にはさせたくなくて、どんどん引き受けてしまうのだから、単なるお調子者である。
 たくさんの締め切りが迫ってきてパニックに陥りそうになったとき、この歌のような豪快な人がいると、とても嬉しいだろう。こんな人は、言葉よりも先に体が動く人だ。私もそうありたい――ということで、相棒が庭から運びこむ鉢植えを、私もせっせと室内に敷いたブルーシートの上に並べるのであった。
 風の音が強くなってきた。気圧計はいつも1010hPaくらいを示すのだが、6月24日19時現在は990hPaを指している。さて、夕飯にしなければ。

☆花山周子歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房、2007年)
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2011年06月10日

ブリキ

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 特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイ
ラです             東 直子


 お菓子の型というものは、何となく持っているだけで楽しい。いつか作るケーキやゼリーが目に浮かんで、心が浮き立つ。
 型の素材はステンレスや銅などいろいろだが、鉄にスズをメッキ塗装したブリキ製のものは最近ほとんどないようだ。「ブリキ」という言葉には、何ともいえないノスタルジーと温かみがあって、ほんわかさせられるのだけれど。
 このところ、稲垣足穂のことを調べているのだが、次のような一節に出会って、東直子さんの歌を思いだした。

 「お月様が出ているね」
 「あいつはブリキ製です」
 「なに ブリキ製だって?」
 「ええどうせ旦那、ニッケルメッキですよ」(自分が聞いたのはこれだけ)
         (『一千一秒物語』の「ある夜倉庫のかげで聞いた話」)

 これは「お月様」がブリキ製だといっているのだが、私は東さんの歌のイメージから、どうしてもブリキの型で焼いたホットケーキのような月を想像してしまうのだった。
 写真は、先日母から送ってもらった型。石垣島のスーパーや百円ショップではどうしても見つからなくて頼んだ。右側は、「クグロフ」と呼ばれるアルザス地方のお菓子の型らしいが、ゼリーを作ってもきれいだと思う、と選んだそうだ。さて、仕事が終わったらお菓子を作ろうか!

 ☆東直子歌集『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、1996年12月)
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2011年06月03日

卵のような

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  一粒の卵のような一日をわがふところに温めている
                       山崎 方代


 卵が貴重品だったのは、昔の話。今や「物価の優等生」として長く君臨し続けている――と思い込んでいたのだが、石垣島に来て、少し考えが変わった。というのも、いくつものガソリンスタンドで、「たまごプレゼント」という幟がはためいており、ガソリンを入れる度に卵がもらえるのが楽しみになったからである。
 旅行者として来ていたころは、その幟を見ては相棒と「何だろうね、たまごプレゼントって」「卵くれるんじゃないの?素直に理解すれば」なんてのんきに話していた。しかし、こちらに引っ越してきて、スーパーにおける卵(10個入りパック)の価格が200円前後と高いことを知ってからは、「2000円以上ガソリンを入れると卵が4個もらえる」というサービスがすごく嬉しいものに思えてきた。

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 千葉のスーパーでは時々、目玉商品として「1パック99円。お1人様1点のみ!!」とチラシに大きく書かれ、勇んで買いに行っていたものだが、それはあまりに安いような気もしていた。どんどん産卵させられる鶏を思うと、どこか後ろめたい思いがする。石垣島では、大体200円を切ると「おお、安い」という感じで、最安値は128円といったところだろうか。これくらいが普通かな、という気がする。
 「一粒の卵のような」という語にこめられた大切な感じは、もちろん価格のことではなく、卵というある種の全きかたちというものから来ているのだろう。そんな「一日」というのは、どんなよいことがあったのだろう。人に話すと壊れたり損なわれたりするような、そんな面もありそうだ。誰にもみせずに「ふところに温めている」ところが、秘密めいて楽しい。
 卵1個を惜しんで食べる日々、方代の心にちょっと近づいたような気もする。最近では、ホームセンターで50円の「給油券」をもらっても、「あそこのガソリンスタンドは卵をくれないからなあ」「やっぱり卵サービスのあるところで入れようよ」などと話す私たちである。

 ☆山崎方代歌集『迦葉』(不識書院、1985年)
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2011年05月27日

定型とは

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  猫の凝視に中心なし まひる薄濁の猫の目なれば
                  葛原 妙子


 昨日、ある人をインタビューした際、話の中に度々「定型」という言葉が出てくるので、どきどきしてしまった。彼は、文学とは全く関係ない分野でのクリエイターなのだが、幼いころから「定型」ということに対して、たいへん敏感に反発し、忌避しようとしてきたというのである。全く新しいジャンルを開拓した人の幼年期の原体験は、実に興味深かった。そして、短歌という「定型」を自分が選んだことについて、改めて考えた。
 私は、ある時期まで詩を書いていた。なぜ短歌へ惹かれたか、というと、詩という「不定形」が怖くなったのだ。自分できちんと形を決め、終わり方を決める詩を書くことは、かなりのエネルギー量を必要とする。あるとき私は、自分の中から呪詛のように、再現なく言葉がずるずると引きずりだされるのが恐ろしくなってしまった。自分にはそれを統御する力がない――。そういう消極的な理由で短歌を選んだことは、今も私のどこかに棘のように刺さっている。
 数日間世話になっている相棒の実家で、猫たちを見ながら葛原の歌集を読んでいて、この一首に立ち止まった。「猫の凝視」は葛原その人の凝視のようでぞくぞくさせられるが、何よりもその字足らずの破調に魅せられる。定型を知り尽くし、そこから飛び出すエネルギーを感じる。実作者であれば、字余りは試せても、字足らずは容易なことでは真似できないことが分かるだろう。どうしたら、こんなふうに詠めるのだろう。
 まだまだ「定型」を究めていない自分を省みるばかりだ。

 ☆葛原妙子歌集『葡萄木立』(白玉書房、1963年)
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2011年05月20日

カボチャに思う

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  トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ
                            時田 則雄


 石垣島では、春先からカボチャが出回っている。本土では6月から9月にかけて多く出荷されるので、だいぶ早い。
 会社勤めのころは、「カボチャなんてどうやって使うの!」「1個買ったら、永遠に(!)食べきれないよ」などと、カボチャに対して誠に失礼なことを思っていた。しかし、これほど使いみちの多い野菜もなく、今は近所の方にいただくとホクホク顔になってしまう。
 甘辛くやわらかく煮るだけではない。ポテトサラダのジャガイモをカボチャに代え、キュウリや玉ネギのスライス、さいの目に切ったハムなどを混ぜてもおいしい。薄くスライスして小麦粉をはたき、フライパンでかりっと焼いて塩を多めにかけると、つまみにも最適だ。先日は、パンプキンケーキ、パンプキンプディングにも挑戦してしまった。
 いま、原稿の締め切りを恨めしく思いながら、「これが終わったら、カボチャのあんパンを焼こう!」と企んでいるところだ。鮮やかな黄色いあんの入った、あんパンを想像すると楽しくて仕方ない。
 この歌は、「千個の南瓜」と「妻」が並列されているのが、実に大らかで愉快だ。上の句はユーモラスだが、「霧に濡れつつ」でしっとりとした抒情があふれる。一首全体からは、農業に携わる人の誇り高さがしみじみと伝わってくる。
 大震災とそれに伴う原発事故による影響で、多くの農家が仕事を失ったり、収穫物が売れなかったりという事態に直面している。誰もがこの歌の作者のように、農作物や仕事自体に誇りを抱いてきたに違いないのに、と思うといたたまれない。カボチャ1個、キュウリ1本、お米1粒にも、それを作った人たちの苦労と愛情が込められているのだと改めて思う。

 ☆時田則雄歌集『北方論』(雁書館、1982年)
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2011年05月13日

詩の力

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  あはれ詩は志ならずまいて死でもなくたださつくりと真昼の柘榴
                           紀野 恵


 「現代詩手帖」5月号の特集は、「東日本大震災と向き合うために」。圧巻は、福島市出身の和合亮一さんの長篇詩「詩の礫 2011.3.16−4.9」である。44ページに上る長さは、何か長歌を思わせる。この作品は、和合さんが故郷の自然や人々を思いつつ、ツイッター上で140文字ずつ書き連ねたものだ。リアルタイムで日々「詩の礫」を読んだ私は、深い悲しみや憤りに満ちた言葉に胸をかきむしられるようだった。
 島の書店に「現代詩手帖」がなかったので、思潮社のサイトから申し込もうとしたところ、「2冊以上注文すると送料無料」とある。貧乏性なので「そうだ!あと1冊、現代詩文庫の何かを買おう」と思いつき、わが家の本棚を点検することにした。ところが、思いのほか揃っているではないか。
 自分はこんなに詩が好きだったんだな、と改めて思った。そして、ふと手に取った「辻征夫詩集」に何か挟まっているのを見つけた。何やら人が寝ころんでいるイラストがたくさん付いた印刷物だ。はぁ?「産褥体操とスケジュール」?「産後第一目」「腹式呼吸」「足の運動」……。
 たぶん活字中毒の私のことだから、息子を出産するときに何か読むものが欲しいと考え、病院へ持っていったのだろう。「産褥体操とスケジュール」は出産した当日にもらったはずだ。私と詩はいつも一緒だったのだ、と感慨深く思った。
 詩は、空腹を和らげない。体を温めてくれない。役に立たない。でも、人は詩を必要とする。和合さんの「詩の礫」が、3・11以降の重苦しい日々、どれほど多くの人の心を慰めたことかと思う。時に涙を誘われ、胸が苦しくなっても、詩は私たちを豊かにしてくれる。
 紀野恵の歌は、鮮やかな柘榴の美しさが印象的だ。言葉遊びのように見えるけれど、「詩は詩であり、実用的なものでもなければ、必然性のあるものでもない。でも、何て美しいものなんでしょう」という詩歌への讃美のように、私は解釈している。

☆紀野 恵歌集『フムフムランドの四季』(砂子屋書房、1987年)
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2011年05月06日

夜のお客さま

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  毒をもつオオヒキガエル島に増えあめりかーのようにしぶとし

 夏本番も近い感じの石垣島である。気温が高くなり、日差しも強くなってきた。そして、昆虫諸君の登場に伴い、それを食糧とするヤモリ、カエルの諸君も元気に姿を見せるようになった……。
 以前、近所の女性陣とおしゃべりしていて、「あたし、ここの冬って意外に好きだなあ」「あ、私も」「そうそう!」と盛り上がったことがある。なぜ冬がよいのか。それは「虫が少ない」「湿度が低い」からなのだ。夏は、虫とそれを食べる小動物の季節であった。
 そういうわけで、わが家にも毎晩お客さまが来る。大きなカエルである。家の灯りに呼び寄せられる虫を狙って、窓の近くに陣取るというわけだ。まあ、普通のカエルならよいのだが、中には毒をもつ外来種のカエルもいて困ってしまう。
 オオヒキガエルは中南米原産だ。実はサトウキビの害虫駆除のため南大東島へ持ち込まれたものが、いつの間にか石垣島へ入り込んだのだという。襲われると背中から毒液を出すので危ない。このカエルを食べた犬が死ぬこともあるという。環境省によって「特定外来生物」に指定されており、見つけたら放置せず「処分」しなければならない。
 先日、昼間にこのカエルと遭遇したが、相棒も私も「処分」する度胸がない。市役所に電話して、捕獲しに来てもらった。職員の方は、内心「しょうがないなぁ」と思ったのであろう、にこにこしながら「次からはよろしくお願いしますね〜」と言っていた。
 人間の都合で太平洋を越えて連れてこられたカエルも気の毒だな、と思う。ともあれ、夜のお客さまに関しては、何も見なかったことにしている私たちである。

 ☆松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月)
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2011年04月29日

パンの幸福

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  ふくよかなパンの包みを押しあてて妻はその胸もちて戻れる
                          石本 隆一
  トーストの焼きあがりよく我が部屋の空気ようよう夏になりゆく
                          俵  万智
  バゲットを一本抱いて帰るみちバゲットはほとんど祈りにちかい
                          杉ア 恒夫


 焼きたてのパンを食べるのは、ささやかな、しかし大きなしあわせである。パンの歌にはなぜか、何ともいえない幸福感が詠われたものが多い。
 一首目は、焼きたてのパンのやわらかさと「妻」の胸が重ねられていて、全体に温かい雰囲気が漂う。
 二首目に詠われているのは、五月初旬くらいの季節ではないだろうか。あるいは梅雨明けかもしれないが、私は青葉の美しい初夏を選びたい。新しい季節の到来を喜ぶだけでなく、新たな恋の予感を抱いているような、弾んだ気持ちが感じられる。
 三首目の作者は、バゲットを垂直に立て、ちょっと生真面目な顔で歩いているようだ。「祈り」にはいろいろ考えされられるが、素直に「焼きたてのパンを買えるしあわせ」への感謝と取ってよいだろう。
 パンの大好きな私が、ついに石垣島のパン屋さんの取材を始めた。それぞれのお店の話が面白くて、いろいろ書きたくなるのだが、これは5月下旬に更新されるウェブマガジンをお待ちいただくしかない。いまアップされたばかりの回は「天文」がテーマである(http://kaze.shinshomap.info/series/ishigaki/04.html)。パン屋さんの回を、どうぞお楽しみに!

 ☆石本隆一歌集『木馬情景集』(短歌新聞社、2005年11月)
 ☆俵万智歌集『サラダ記念日』(河出書房新社、1987年5月)
 ☆杉ア恒夫歌集『パン屋のパンセ』(六花書林、2010年4月)
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2011年04月22日

アカショウビン

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 この家の最初の客はアカショウビン朝の大気をふるわせて鳴く

 昨日(4月21日)今年初めてアカショウビンが鳴くのを聞いた。とても嬉しくて、気持ちがぱっと明るくなった。
 アカショウビンはカワセミの一種で、赤くて長いくちばしが愛らしい。「ヒョロロロ〜」という、半音階ずつ下がるような不思議な鳴き方をする。「コッカロー」とか「ホッカロー」というふうな表現もされている。春から初夏に南からやってくる渡り鳥で、夏が終わると去ってしまう。
 この鳥を初めて見たのが、昨年5月1日の朝だった。前日の午後ようやく石垣島にたどり着き、段ボール箱の積み上げられた家で最初の夜を過ごした翌朝である。家の前の電線に、アカショウビンがとまって鳴いているのを見つけ、うっとりと聴き入った。「ここに住んでいると、毎日アカショウビンに会えるんだ!」と感激したが、それは大間違い。その後、鳴き声はしょっちゅう聞くのに姿は全く見ないまま、季節が変わってアカショウビンは去ってしまったのだった。
 そういうわけで、昨日からアカショウビンの声を聞いては感慨を深くしている。先日ブログのコメントに「石垣島は常夏かと思っていたけれど、移住してからのブログの方が季節感たっぷり」と書いてくれた人がいた。季節ごとの出会いが多く、動植物も食べものもすべて季節の移り変わりを示していることを改めて思う。
 写真は、田中一村の「ダチュラとアカショウビン」の一部。田中一村の移り住んだのは奄美だが、作品集を見返すと、クワズイモやアダン、テッポウユリ、オオタニワタリ、ガジュマルなど、石垣島でおなじみの植物ばかり描かれている。アカショウビンもいくつか描かれており、一村もこの鳥の鳴き声に慰められたことが多かったのかなぁと思う。

 ☆「かりん」2010年7月号
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2011年04月15日

テッポウユリ

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朝光(あさかげ)のなかに蕾をひらきたり百合は世界の四隅にむきて
                           小林 幸子


 石垣島に引っ越してくるとき、一番楽しみにしていた季節がやってきた。わが家からほど近い御神崎(うがんざき)という灯台のある岬に、テッポウユリが咲くからである。
 引っ越したのは昨年4月30日で、既にユリは終わっていた。夏以外の季節に何度か島を訪れたが、ユリの咲く季節だけは逃していたので、今年こそは!と楽しみにしていた。
 かつては野生のユリが咲き乱れていたそうだが、イノシシに球根を食べられたりして、減ってしまったという。それでも、けさ行ってみるとあちこちに咲いていて、すっかり嬉しくなった。
 御神崎は景勝地として知られるスポットで、小さな灯台や断崖絶壁の下に広がる青い海が、とても美しい。わが家から車で5分ほどのところなので、友達が本土から遊びに来ると、必ずここへ連れてゆくことにしている。断崖に当たって波が砕ける様子を見ると、みな決まってTVドラマの真似をして、がっくりと膝を突き「わたしがやりました!」という台詞を口にするので可笑しくてならない。
 この歌は、「世界の四隅」に向く、という捉え方に、はっとさせられる。少しうつむき加減に咲くユリは、思慮深く「四隅」を見つめているようだ。中心でなく「四隅」というのは、有限な世界であることを指すのだろうか。私たちも世界の隅を静かに見つめ、大切なものについて考えを深めないといけないのではないか、と思わされる一首である。

 ☆小林幸子歌集『シラクーサ』(ながらみ書房、2004年8月)
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2011年04月08日

春はモズク

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 いちまいの魚を透かして見る海は青いだけなる春のまさかり
                   前川佐美雄


 石垣島は穏やかな春である。アーサが終わって、いまはモズクが採れる時期となった。
 先日の4月5日は旧暦の3月3日、つまりひな祭りだが、この日、沖縄各地では「浜下り」という行事が行われる。女性が菱形のよもぎ餅を持って浜に行き、海水につかって身を清めて健康と幸せを祈願する、という習わしである。浜下りは「ハマウリ」と発音するが、八重山では「サニズ」と呼ぶらしい。
 私と相棒も、スーパーでよもぎ餅とおにぎりを買って浜辺へ。すでに石垣島では3月21日に海開きが行われ、足を濡らす海水は心地よい冷たさである。ちょうど大潮の時期なので、沖の方までずっと歩いてゆける。こちらに来ると、海は生活の場なんだなぁ、とひしひしと感じる。
 新聞社にいたころ、地方版にある「満潮 干潮」の欄を見て、「誰がこんなものを参考にするのだろう」などと思っていた自分が恥ずかしい。近所の人と話していると、「今日モズク採りに行こうと思うんだけど」「あ、干潮、何時だっけ」「今日は2時半すぎだから、一番いいのは…」という具合に会話が展開する。
 「厄落とし」や「健康と幸せの祈願」よりも狙いはモズク、という私たちは、目を凝らして浜辺を歩いた。モズクはほよほよと波にそよぎ、触るとぬるぬるしている。これまでにお店で食べたものよりも太くてやわらかい印象だ。群生しているのを見つけると、ガッツポーズしたくなる。先がブルーの美しいサンゴや小さな魚を見るのも楽しい。
 「春のまさかり」という歌を思わせる、美しい海を堪能した1日だった。

 ☆前川佐美雄歌集『白鳳』(ぐろりあ・そさえて、1941年)
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2011年04月01日

おはなし

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  待ちながら暮れてゆく店お話の中ならそろそろ子狐も来る
                  奥山 恵


 先週ブログに書いた活動で集まった絵本は、無事に宮城県、福島県の避難所へ送られたそうだ。「被災地文庫」として読まれた後は、公立図書館づくりに役立ててもらえるという。とてもうれしい。
 おとなにとっても、本を開いてその世界に入り込むのは楽しい時間だが、子どもにとって、本や「お話」は心の栄養になるものだ。怖い思い、悲しい思いをしただけに、いっそう大切な糧になると思う。
 この歌は、昨秋、千葉県柏市に児童書専門店を開いた私の友人の作品である。長年、定時制高校の教師として働き、やっと念願かなって店をオープンした彼女だが、お客さんを待っているうちに日が暮れてしまうときもあるのだろう。
 人間のお客さんが来ないのは、本当は困った事態なのだが、この店長さんはふと「こんな日は、子狐が来るんじゃないかしらん」と半ば期待しているようなのが可笑しい。ちょっと変わった子が来たら、差し出されたお札には気をつけないと、葉っぱかもしれない……。
 彼女のお店の名は、「ハックルベリーブックス」(http://www.huckleberrybooks.jp/)。JR柏駅から歩いて10分ほどのところにある。オープン間もない頃に訪れたけれど、とても心地よい空間だった。また行きたいな、被災地に送りたい本がたくさんあるだろうな、と思う。

☆「かりん」2011年3月号
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2011年03月25日

大震災

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 災害を遠くいためばその余震しばしば届きわが家揺るる
                   秋葉 四郎


 東日本大震災のあと、しばらく仕事が手につかなかった。テレビのニュース画面を見ていると、胸が詰まるように苦しかった。自分の言葉がとても無力に思え、文章も短歌も書けなくなった。何だかもうブログもやめてしまおうか、なんていう気持ちにさえなった。
 けれども、被災した人たちのことをただ思うだけでは何も変わらない。先週、地元のお母さんたちが被災地に送る子ども用の衣料品と絵本を集める活動を手伝って、少しだけ心が軽くなった。たった2日間だけのボランティアだったけれど、自分はこういうことがしたくて会社を辞めたんだっけ、新聞記者の仕事は好きだったけれど、どんな活動についても常に傍観者でいることが嫌だったんだ、と思いだした。1人ひとりのできることは小さいに決まっている。それを集めることが大事なのだ。
 運び込まれる衣類にしみやほつれがないかどうかチェックしながら、持ってきてくれた人に今回の趣旨を説明したりお礼を言ったり、待っている人の列に呼びかけたり……結構忙しかった。そして、いつも一人でパソコンに向かって仕事をしている私にとっては、「本当に」働いたという実感が持てたひとときでもあった。やっぱり体を使うことは大事。
 絵本については、まだ受け入れ先の状況が整っていなくて、後日市内のフリーマーケットで販売し、売上を義捐金として送ることになった。家にある本を精選して持っていったので、ちょっぴり残念だが仕方ない。また時間が経てば、絵本を送る機会もあるだろう。自分が被災したときのことを考えたら、本のない生活は実につらいと思う。大勢の人と寝起きを共にする生活の中でも、本があれば束の間でも別世界に遊ぶことができる。避難所生活が続く人たちのために、「避難所文庫」みたいなものがあれば喜ばれるのではないかな、と考えている。電気のないところでも、本はいつでも開くことができる。
 この歌の「余震」は、実際の余震のことだろうが、いろいろな影響と取ってもよいと思う。今回の大震災の余波は首都圏にも広がっており、穏やかな日常やこれまでの価値観といったものが揺れている。被災地の悲しみに寄り添いつつ、何か行動したいと願うばかりだ。

 ☆秋葉四郎歌集『東京二十四時』(短歌新聞社、2006年8月)
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2011年03月11日

ツナ缶

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  缶詰の中の<無音>を開けむとす入道雲の立ちあがる朝
                  栗木 京子


 「とりあえず、ツナ缶があれば」。先日、知人宅で知りあったばかりの青年が何度もそう繰り返すのが可笑しくて、大笑いした。確かに、豆腐や卵、野菜などを炒めるチャンプルーを作るにも、アーサ(アオサ)のおつゆを作るにも、ツナの缶詰は大活躍だ。ツナ缶が常備されていれば、心強いことこの上ない。
 ツナ缶の消費量が全国一多いのは、沖縄県である。「ポーク」と称するランチョンミートの缶詰も沖縄ではよく使われるが、どちらも戦後、アメリカの食文化が入ってきたことで普及したという。高温多湿の沖縄の夏は、食べものが傷みやすい。朝、鍋に火を入れたからと安心していると、夕方には腐敗臭がしていたりする。台風が近づいてくると、パンやおにぎりのほか、カップラーメンなどの保存食が必需品となる。火を使わずに食べられる缶詰類も必須アイテムだから、ポークやツナの缶詰がたちまち沖縄の食生活になじんだのも不思議ではない。
 それにしても、沖縄のお年寄りたちはツナのことを「トゥーナー」と発音するそうだ。「ビーチパーティー」を「ビーチパーリー」、「ウォーター」は「ワーラー」と米国式の発音で覚えているというのが、何とも物悲しいのであった。
 ――というわけで、沖縄とツナ缶は切っても切り離せないものである。私も何となく、島のスーパーにおけるツナ缶の種類の多さを感じてはいたのだが、徐々にその存在感に影響されていたらしい。先日ついに、初めての「箱買い」をしてしまった。
 12缶入りの箱は、沖縄県内でしか販売されていないらしい。こちらに来て初めて見た。それほど大きな箱ではなく、大きめのノートパソコンみたいな感じである。それを抱えてスーパーを出たとき、「ああ、私、けっこう島になじんだかも!」という感慨が湧いてきた。
 この歌は、缶詰という密封された小さな空間の闇や静けさを想像させるところが素晴らしい。日常の視点から離れ、全く違う角度と高さから世界を見せてくれるような機智に魅せられる。自分もこういう歌で人を楽しませることができたらなぁ、と思う。まださすがに「入道雲」は現れていないが、南島には早くもツツジが咲きだした。

 ☆栗木京子歌集『夏のうしろ』(短歌研究社、2003年7月)
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2011年03月04日

本のかたち

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   ペーパーバックの文字追ふ瞳上ぐるとき夜を吸へるその深き
   みづいろ                     笠井朱実


 ごくごくたまに、翻訳された本を読んでいて原書を読みたいと思うことがある。とても好きな作品だと、それがどんなリズムや響きで書かれているのか知りたくなるのだ。例えば、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』や、K.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』がそうだった。マイクル・クライトン『ジュラシック・パーク』は半ば腕試しに読んでみた。ちょうど科学環境部という部署に所属していた時期で、いろいろな科学用語が頻出するのが面白かった。
 吉田健一のエッセイを読んでいて「英語の本が読みたければ、大概のものは翻訳されている。無理する必要はない」なんていう文章に出くわすと、まさに「無理」して読んでいる私は苦笑いするしかない。幼少期を英国で過ごし、後にケンブリッジで学んだ吉田のような人から、「英語というのは絶対に覚えられないものなのであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい」と言われてしまうとがっくりくる。
 それでも懲りずにペーパーバックを買ってしまうのは、この形への愛着もあるだろう。日本の文庫本も愛らしい形状だが、ペーパーバックのばさばさした紙質と厚みは、「中身で勝負!」という感じがして愛すべき存在に思える。空港や機内で、ランチボックスくらいの厚みのあるスティーヴン・キングやグリシャムのペーパーバックを抱えている人を見ると、何だかいいなと思う。
 昨年アメリカへ行ったときは、かなりの年配の人たちがKindleを読む姿を頻繁に見かけ、「ふーん」と驚いた。あの分厚いペーパーバックを数冊持ち歩くことを考えれば、かさばらず重くない電子書籍は、若者よりもむしろお年寄り向きの商品なのだと合点がいった。
 電子書籍はフォントを大きくして読みやすくできるから、普及したら高齢者だけでなく弱視の人もだいぶ助かるだろう。読み上げ機能を加えたら、目の見えない人の読めるものがぐんと増えることも期待できる。記者時代、視覚障害者のための朗読ボランティアをしている人から、「実は週刊誌やエロティックな小説などの需要が多いのだけど、なかなかそこまで出来ないのが実情。ボランティアの人も名作を読みたがって…」という悩みを聞いたことがある。
 この歌は、ペーパーバックという「洋」のものを素材に詠った一首である。短歌特有の湿っぽさがなく、からりとした抒情が魅力的だ。

 ☆笠井朱実歌集『草色気流』(2010年6月、砂子屋書房)
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2011年02月25日

春の海

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  春の海あたたかげにも膨らみて寄るしら波は笑ふがごとき
                               窪田 空穂


 南島には夏と冬しかない、という人もいるが、空の色や光線の具合に春や秋を感じることはある。そして、それぞれの時期にしか採れない自然の恵みは、何よりも季節を感じさせてくれる。石垣島の春の場合は、アーサ(アオサ)である。
 先日、島の知人から「アーサ採りに行かない?」と誘われ、締め切りを山ほど抱えているにもかかわらず、近くの湾まで一緒に出かけた。なにしろ、旅行者として島を訪れていたころから、ずっと気になっていたのが、潮の引いた湾で何かを拾っている人たちの姿だったのだ。相棒と「なに拾ってるんだろう」「私たちも引っ越してきたら拾いに行こうね!」と話していたので、このチャンスを逃すのは惜しかった。
 長靴を履いて、つばの広い帽子をかぶり、ざるを持ったら出発だ。干潮時の湾は、ずいぶん遠くまで歩いてゆける。きれいなアーサの緑は、春そのものといった感じがする。岩に付いている生乾きのものは、ぺりぺりと剝がすことができるのが面白い。窪みにたまった海水の中にゆらゆらしているものの方が、採るのが簡単で砂などが付きにくい。アーサを採りながら、暖かくてやさしい風に吹かれていると、本当にゆったりした心もちになった(締め切りのことは少なからず気がかりだけど……)。
 この歌を読み、「春の海」というものをこれまで知らなかったと思う。「膨らみて寄るしら波」が実感できるほど、海を眺めることはなかった。そもそも、海そのものを知らなかった。ここに暮らすようになり、湾のそばを何度も通っているうちに自然に干潮、満潮の時刻が分かってきた。海の色も日々違っていて、いつも新しい。
 アーサは春先にしか採れない。海からの贈りものだなぁ、としみじみ思う。この贈りものがずっとずっと届くように、海を守らないといけないという気にもさせられた。
 採ってきたアーサは、乾燥させて砂粒や貝殻のかけらを除き、小分けにして冷凍した。残りは冷蔵して、おつゆやてんぷらに。最高の春の味わいである。

 ☆窪田空穂歌集『木草と共に』(1964年10月、春秋社)
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2011年02月18日

花の好きな男

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  遠出すれば必ず花を買う男年々歳々われがさつなり  
                
 一緒に暮らしている相棒は、花の好きな男である。これまでも車で遠出するたびに、花の種や鉢植えを買っては、朽ちかけたアパートの庭に嬉々としてそれを植えて育てていた。私の方は、どうも「みどりのゆび」にはほど遠く、どちらかと言うと枯らす名人かもしれない。
 先日も相棒はブーゲンビリアの鉢をたくさん買ってきて、ご満悦である。わが家は風の強いところに建っているので、雨が降ったり風が吹いたりするたびに、鉢やプランターを軒下に避難させたり、また庭に戻したりと大変そうだ。
 友人たちとの会話でこの人物が出てくるとき、私は照れくさくて長年「例の人」だとか「通い婚の人」とか話していたのだが、ついに友人たちが「それじゃ不便だよ、何かあだ名を付けよう」ということで意見が一致した。ちょうど私がフラメンコを熱心に習っていた時期でもあり、なぜかその場で「フェルディナンド」に決まってしまった。
 ところで、子どものころ読んだ絵本に『はなのすきなうし』がある。スペインに暮らす一頭の牛は花が大好きで、ほかの牛たちがマドリードの闘牛場で勇ましく戦うことを夢見ているのに、うっとりと花の香りをかいでいる……というお話だ。穏やかな気質の、この牛の名前が「フェルディナンド」というのを思い出し、あとで可笑しくなった。わが相棒はウシ年生まれであり、その意味でもなかなかよいネーミングだったということになる。
 あるとき彼に、「君ね、自分の知らないところで、フェルディナンドって呼ばれてるんだよ」と話すと、たいそう驚いている。露文出身の相棒は、ゴーゴリが大好きなのだが、『狂人日記』に、自分のことをスペイン国王「フェルディナンド8世」だと思いこむ下級官吏が出てくるというのだ。これには、私もびっくりした。
 「フェルディナンド」を巡る奇妙な偶然は、珍しい大輪の花のように思える。私は現実の花よりも、こういうものに惹かれてしまうのである。

☆松村由利子歌集『大女伝説』(2010年5月、短歌研究社)
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2011年02月11日

卵料理

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  人間を産んでしまった悲しみよ卵料理はあたたかすぎる
                        
 子どものころ、母の本棚にあった石井好子の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社)を読むのが楽しみでならなかった。食べたことのない、おいしそうなものがたくさん出てきて、胸がわくわくした。
 早川茉莉さんが編集したアンソロジー『玉子 ふわふわ』(ちくま文庫)には、石井さんの回想「東京の空の下オムレツのにおいは流れる」をはじめ、武田百合子、森茉莉、池波正太郎、東海林さだお、向田邦子といった、おいしいエッセイの妙手が卵料理について書いた文章が収められていて、楽しいことこの上ない。
 この歌は、私のごく初期のものだ。「理が勝っている」と評されることの多い私にしては、わけの分からなさがあって、当時はよいのか悪いのか判断できなかった。歌集の出版記念会のとき、素晴らしい喩の使い手、大滝和子さんがスピーチで、この歌を取り上げ「そうなんです、卵料理はあたたか過ぎるんです」と、妙に力説してくださったのがすごく嬉しかった。
 卵料理はやさしくて、あたたかくて、なつかしい。その半面、卵というものの生命感、それを食べることのかすかな罪悪感、残酷な感じ、奇妙なぐにゅぐにゅ感も抱かせる。そんなあれこれが入りこんだ歌は、私の心の奥底から湧いてきた不透明なものを湛えていて、愛着がある一首なのだった。

☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月)
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2011年02月04日

島に暮らす

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  雨上がり南島深く息を吐き樹下の空気のひいやりとせり 
                 
 南の島に住んでいる、というと、ほとんどバカンスのような日々を過ごしているように思われる。しかし、それは美しい誤解であり、毎日ちゃんと原稿を書いて働いている。
 先週、ウェブマガジンの連載の仕事が2本スタートした。
「石垣島に魅せられて」
 http://kaze.shinshomap.info/series/ishigaki/01.html
「女もすなる飛行機」
 http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/woman/001.html
 「石垣島…」は、島の知られざる魅力を紹介するという趣向である。この連載の取材のために島を走り回っていると、ここに住んでいるのだという気持ちが強くなってきたのは、思わぬ収穫だった。今までは「お客さん」という感じだったが、少しだけ「バガージマ(わが島)」という感覚を味わっている。
 「女もすなる…」は、草創期から現代に至るまでの女性パイロットの話だ。短歌というか文学とはほとんど関係がない。
 どちらもノンフィクションの分野に入るかと思うが、新聞記事の延長のようなスタイルで書いて出稿したところ、両方の担当編集者から「もっと自分を出してください」とNGが出され、へこんでしまった。今まで「筆者は黒衣。客観的に」という意識で記事を書いてきた私にとって、かなり難しい課題である。1回目はようやく通ったが、これから手探りで自分の新しいスタイルを見つけなければならない。
 今年はこの2本だけで、いっぱいいっぱいの気分なのだが、短いエッセイや書評の仕事はまた別の話。頭の切り替えになるし、「書評のために読まなくちゃいけないんだもの」と言いわけをして本が読めるので、楽しい仕事といえる。南島に暮らす楽しみは多いが、まだまだ「仕事第一」の私なのである。
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2011年01月28日

土屋千鶴子さんの歌集

『オフィスの石』

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 働く女は、強くてやさしい。その一所懸命さがいとおしくて、抱きしめたくなってしまう。

  働けど働けどなほノルマ増えオフィスの夜をしのび泣く石
  新人に情報公開説くまひる〈透明で公正な県政〉の夢
  「あいさつは明るく」といふ通達のギャグかと思ふ夜中のオフィス


 この歌集の作者は、県庁に勤めている。ふつうの企業以上に、前例や慣行の束縛が強く、仕事量も多いだろう。1首目は自らを「しのび泣く石」に喩えたところが泣かせる。2首目の「夢」、3首目の「ギャグ」には、作者自身の味わっている苦さがあふれている。

  真夜中もやつてるけれどコンビニぢやないのよここは救急病院
  生後二十日のわが児がベビーベッドから落ちたと泣きぬ落としたでなく
 

 行政の仕事はいろいろな現場に足を運ぶ。少し新聞記者の仕事とも似たところもあるかもしれないが、もっと当事者に近い。感情的になりそうな部分を敢えて抑え、やんわりと皮肉を利かせているバランス感覚がいい。この情理のほどよさこそ、作者の特性ではないかと思う。

  研修に改めて読む日本国憲法はほう旧仮名遣ひ
  芯深く疲れた夜は珈琲も笑顔も薄いお店にゆかう
  繊細な線で囲まれカンヴァスに裸婦は牛乳よりも冷えゐる

 
 情理のバランスが、1首目のようなユーモアというか余裕を生んでいる。2首目の「疲れ」には共感する人も多いだろう。3首目は見られ描かれる対象である「裸婦」へのまなざしが鋭い。女性性への批評と読んでもよい。
 これほど知的で冷静な作者が、恋を詠うとき、それはそれは伸びやかで瑞々しい心がほとばしる。

  お互ひの名刺の意味は消失すはだかのふたりに滝のよろこび
  毛糸玉ころがるやうなやさしさに名前呼ばれし雪ふる朝(あした)
  わたくしが誰かの妖精だつた頃木の実を降らす風と暮らした


 もう一度恋をしたくなるような、激しくも美しく、かなしい営みが胸を打つ。きりきりと働く日々だからこそ、こんな恋ができるのかもしれない。
 最近、女性の職場詠が増えていて、とても嬉しい。いろいろな現場の歌が私は好きだ。働くという当たり前の、けれども常に真剣勝負で待ったなしの現場。人生そのものの熱さが、そこにはある。

☆土屋千鶴子歌集『オフィスの石』(短歌研究社、2011年1月)
posted by まつむらゆりこ at 07:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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