餃子食べてゐる顔みんななにかかう藤田まことに似てくるをかし
岩田 正
子どものころ、家ではテレビをあまり見せてもらえなかった。日曜日などに祖父母の家へ行くとそういう制限はなかったので、苦い顔をしている母親を尻目に、夢中になってテレビを見た覚えたがある。
だから、藤田まことを一躍人気者にした「てなもんや三度笠」も、祖父母の家でちらと見た覚えがある。「ちらと」というのは、小さかった私には、お芝居というものや台詞の面白さがほとんど理解できなかったためである。まだお相撲の方が勝った負けたがあって、身を入れて見たような記憶がある。ただ、日曜日の夕方遅くという時間帯と、祖父母の家に漂う、あたたかいんだけれども、なにかしんみりした感じが、白黒テレビの画面の雰囲気とないまぜになって、「てなもんや三度笠」という番組名には今も胸がきゅんとなる。
さて、この歌の「藤田まこと」には、何ともいえない哀感が漂っている。六音の名前ならば誰でもうまくはまりそうなものだが、熱々の餃子を食べている様子とぴったり合う人物というのは、なかなかいない。そして、餃子という食べ物をもってきたところもまた絶妙だ。おいしいけれども、特別高価な一品ではない。出てきたらおしゃべりなどせず、ひたすら黙々と熱いうちに食べなければいけないのは餃子に限らないが、何かこうどっしりと食べ応えのある、頼りになるおいしさである。
歌がつくられたのは1990年代だから、藤田まことが「必殺」や「はぐれ刑事純情派」のシリーズで人気を集め、俳優としてのステイタスを固めたころだろう。決して華やかではないが、こつこつと誠実に生きる人物を演じて人々の心をつかんだ彼に、餃子はよく似合う。
作者はヒューマニティあふれる歌をつくる人である。きっと、藤田まことの演じる人物像に、人々の共感や時代の雰囲気を感じ取っていたのだろう。ふと入った中華料理店で、一心に餃子を食べている人たちに限りないいとおしみを感じ、「ああ、われら庶民」とでも言うべき感慨を抱き、この歌が作られたのだと思う。
さりげなく作られたような歌だが、「餃子」でない食べ物、「藤田まこと」でない名前を入れて一首を成り立たせようとすると、非常に難しい。亡くなられた藤田さんは、この歌を知っていただろうか。誰かから聞いたことがあっただろうか。哀感あふれるこの一首を、彼に見せてあげたかった。
☆岩田正歌集『レクエルド』(本阿弥書店、1995年4月)