悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず
寺山 修司
南島を旅して、マンゴーをたくさん見てきた。この果物は、柑橘類とはまた違った、みっしりとした重みが特徴だ。その中身の詰まった感じの重みは、どこか赤ん坊を思わせる。
甘い果汁を湛えた果実は、どんな種類であっても本当に美しい。けれども、種子を残すためにたくわえられた果汁であり果肉であることを考えると、果実自体が何ともけなげで悲しい存在に思えてくる。
寺山修司の作品は、短歌を作り始める前からよく読んでいた。あざとさが鼻につく歌もあるけれど、やっぱり好きな歌人である。寺山の歌は着想が豊かで、あまりこねくり回していないところがいい。
この歌は、「悲しみは一つの果実」という二句目まででもう出来上がっているようなものだ。三句目、四句目で淡々と情景説明をして、結句で「手渡しもせず」と着地を決めてみせるところが憎い。こういうのは、なかなか真似のできない巧さである。
中城ふみ子の「悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ」も思い出す。汗ばんだ小さな子は、果実そのもののようだ。抱いた子が寝入ってしまうと、どっと重たさが増すこともなつかしい。
寺山は青森出身だから、この「果実」は林檎のイメージかもしれない。しかし、林檎だと硬質な感じで、「熟れつつ」という語があまり効いてこないような気がする。果皮がやわらかく傷つきやすいマンゴーを、この歌で想像してみても面白いと思う。
☆寺山修司歌集『血と麦』(1962年、白玉書房)