ねんねこに包まれてゐしはもう昔この子が私に似ませんやうに
河野 裕子
似るな似るなといひて育ててきた息子冷蔵庫にてあたまを冷やす
米川千嘉子
子どもが生まれると、人はどんなことを思うのだろう。
生まれる前は確かに、「どんなところが私に似るかなあ」と無邪気に楽しみにしていた。でも、自分と別の人格をもった一人のひとが、本当に眼前に現れると、とても怖くなって、「どうか、自分にだけは似ないでほしい」と思ったのを覚えている。
そういう気持ちは、父親よりも母親の方が強いのだろうか。ここに挙げた二首は、いずれも女性の作品である。
一首目は、母親である自分を超えてもっともっと大きく羽ばたいてほしい、というような気持ちが感じられる。自分の子が「ねんねこ」に収まっていた頃をとうに過ぎた感慨は、誰もが経験するものだろう。そして、この歌にはどこか、微かな疲れが漂っているのが悲しい。
二首目は、さらに内省的な作者像が窺われる。というのも、「冷蔵庫にてあたまを冷やす」という素っ頓狂なことをしている息子をこよなく愛し、「ああ、自分に似なくてよかった」と安堵しているような感じがするからだ。「似るな似るな」とは思ってきたけれど、ここまで私と違う生き物に育ったとは……という、半ば呆れたような愉快な気持ちと読めないこともない。でも、私には「安堵」が強く感じられる。
いろいろな事件が起こると、いまだに加害者の親にコメントが求められ、責任が問われたりもする。けれども、「似ませんやうに」「似るな似るな」という思いは、そういう、この世の責任を回避するような小さな思いとは全く違う。それは、自分から一人のひとが産まれたことへの畏れである。自分のような人間に育てられたことで、このひとが持って生まれたよき資質が台無しになるような、そんなことがありませんように、と願う心でもあろう。
ある年齢を過ぎてから、よその子を見かけると、幼稚園児であろうと高校生であろうと、愛おしくてならない。たくさんの可能性をもった自分より幼い者たちへの思い、それは多分、産んだ経験の有無とは関係のない思いである。こんなあったかい思いがあることを、若い頃は知らなかった。「似るな」と念じなくてもよい分、この思いは心地よいものかもしれない。人の心は不思議である。
☆河野裕子歌集『葦舟』(角川書店、2009年12月)
米川千嘉子歌集『滝と流星』(短歌研究社、2004年8月)