2010年01月08日

似るな

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  ねんねこに包まれてゐしはもう昔この子が私に似ませんやうに
                     河野 裕子
  似るな似るなといひて育ててきた息子冷蔵庫にてあたまを冷やす
                     米川千嘉子


 子どもが生まれると、人はどんなことを思うのだろう。
 生まれる前は確かに、「どんなところが私に似るかなあ」と無邪気に楽しみにしていた。でも、自分と別の人格をもった一人のひとが、本当に眼前に現れると、とても怖くなって、「どうか、自分にだけは似ないでほしい」と思ったのを覚えている。
 そういう気持ちは、父親よりも母親の方が強いのだろうか。ここに挙げた二首は、いずれも女性の作品である。
 一首目は、母親である自分を超えてもっともっと大きく羽ばたいてほしい、というような気持ちが感じられる。自分の子が「ねんねこ」に収まっていた頃をとうに過ぎた感慨は、誰もが経験するものだろう。そして、この歌にはどこか、微かな疲れが漂っているのが悲しい。
 二首目は、さらに内省的な作者像が窺われる。というのも、「冷蔵庫にてあたまを冷やす」という素っ頓狂なことをしている息子をこよなく愛し、「ああ、自分に似なくてよかった」と安堵しているような感じがするからだ。「似るな似るな」とは思ってきたけれど、ここまで私と違う生き物に育ったとは……という、半ば呆れたような愉快な気持ちと読めないこともない。でも、私には「安堵」が強く感じられる。
 いろいろな事件が起こると、いまだに加害者の親にコメントが求められ、責任が問われたりもする。けれども、「似ませんやうに」「似るな似るな」という思いは、そういう、この世の責任を回避するような小さな思いとは全く違う。それは、自分から一人のひとが産まれたことへの畏れである。自分のような人間に育てられたことで、このひとが持って生まれたよき資質が台無しになるような、そんなことがありませんように、と願う心でもあろう。
 ある年齢を過ぎてから、よその子を見かけると、幼稚園児であろうと高校生であろうと、愛おしくてならない。たくさんの可能性をもった自分より幼い者たちへの思い、それは多分、産んだ経験の有無とは関係のない思いである。こんなあったかい思いがあることを、若い頃は知らなかった。「似るな」と念じなくてもよい分、この思いは心地よいものかもしれない。人の心は不思議である。

☆河野裕子歌集『葦舟』(角川書店、2009年12月)
 米川千嘉子歌集『滝と流星』(短歌研究社、2004年8月)

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2008年09月05日

息子

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   受け取りてしばしを育て終へたれば返すものなり
   息子といふは     紺野 万里


 娘は大人になってからも母親との距離がなく、姉妹のように仲良くできるが、息子はそうは行かない。成長すれば家を出てゆくものだし、結婚でもすれば、もう配偶者との家庭が一番になる――そんな話をよく聞く。
 この歌の作者も、そう思ったのだろう。子どもはたまたま天から預かりものとして「受け取」ったもの、そして子ども時代は、本当に「しばし」という短い限られた時間である。その大切な、いとおしい時間が過ぎてしまったら、「返すもの」なのだと達観していなければ……。
 しかし、私はそう思わない。息子であろうと娘であろうと、「育て終へれば返すもの」ではないかと思う。子どもは三歳までに一生分の親孝行をしてしまうと言う。それくらい愛らしい。たまたま自分のところに来た存在に過ぎないのだから、そのままずーっと一緒にいるわけには行かない。息子だけでなく娘だって、親よりも配偶者の方が大切になるのはごく当たり前のことで、むしろそうならないと困る。
 この歌の作者は、たいそうシャープな知性の持ち主で、何億年もの地球の歴史をはろばろと詠い、現代社会の危うさを鋭く切り取ってみせる手腕は、実に見事である。その彼女にして、愛する息子に対しては特別な甘い感情を抱き、めろめろになりそうな弱さを示しているのが、この歌の面白みだと思う。
 母というものは、愚かしい方がいいのだ。利にさとく、子をうまく御そうとするなんて、よくない。古川柳に「母親はもったいないがだましよい」とうたわれた母親を、私はこよなく愛する。知的な詠みぶりで知られるこの歌の作者も、ころっと息子にだまされることがあったかもしれない。それがまた、この人の魅力であり、私もそんな母親でありたいと願う。

☆紺野万里歌集『星状六花』(短歌研究社、2008年8月刊行)
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2008年07月18日

水と子ども

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   さあさあと雨に囲まれ子は泣けりああ水っぽい生きもの
   子ども               江戸 雪


 小さい子どもの身体というものは、水分含有量が大人よりも多い。だから、しょっちゅう水やジュースを欲しがるし、しょっちゅう「おしっこ!」と宣言して親を慌てさせる。ほっぺたはもちろん、腕やふくらはぎもすべすべで、ぷくぷくしていて、お餅のようである。
 この歌は、雨が降っていてちょっぴり憂うつな気分が、子どもの泣き声と交じり合った感じを詠ったものだろうか。何だか雨に誘われたように、子どもは泣いている。ちょっとしたことで汗びっしょりになったり、わんわん泣いたり、全く子どもというものは「水っぽい生きもの」だなあ、と作者は思う。その何ともいえない距離感がいい。冷たく突き放しているのでもないし、泣いていることに困惑しているのでもない。自分とはまるで違う生きものである子どもに感じる不思議さ、いとおしさがほどよくて、気持ちのいい一首である。

   みづあふれ子どもは生まれみづは閉ぢこの子どこかへか
   へりたさうで            米川千嘉子


 この歌の「みづ」は、「羊水」と解釈してもよいのだろうが、もっと大きくて不可思議な「みづ」と取った方が面白い。子どもは「みづ」の国、「みづ」の世界から、たまたまこの世に生まれてきてしまったのだ。そんなふうに思ってしまうような清らかさが、幼い子どもにはある。「どこかへかへりたさう」な危うさに、思わず子どもをぎゅっと抱きしめたくなるような歌だと思う。

☆江戸雪『Door』(砂子屋書房、2005年11月刊行)
 米川千嘉子『たましひに着る服なくて』(1998年9月刊行)
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2008年02月01日

母の歳

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  象の前で幼い私を笑わせてシャッターを押した母の歳になり  
                小林さやか


 明るくて、元気者のおかあさんの様子が髣髴される。作者が幼稚園か小学校に通っていたころに、動物園で撮影した写真があるのだろう。そこには、屈託なく笑った、とてもいい顔の作者が写っている。写真を写されることをほとんど意識していない子どもの笑顔は、本当にいいものだ。
 作者は、小さかったときの自分の姿を見るのも嬉しいが、写されたときのおかしかった状況もよく覚えていて、飄軽なことを言って自分を笑わせた母の若さを思う。そして、現在の自分が、その時の母と同じ年齢になってしまったのだという驚きをしみじみと感じる。歌集を読むと、この歌は作者が出産を経験する前の作品なので、感慨もひとしおだったに違いない。
 「象の前で」というのが、とても具体的であたたかな感じを出している。丁寧に描写された全体から、「さやちゃーん、写すよ!」と声ものびやかにカメラを構える若い母親の姿が浮かんでくる。同時に、同一人物である小さい女の子と若い女性の姿が重なり合う、という効果も図られていて味わい深い。
 ところで、私が生まれたとき母方の祖母は年女だったのだが、今年、私は同じ年齢の年女になる。昔の人は、結婚も出産も早かったのだが、「祖母の歳になり」には複雑な思いに駆られる。この歌では、「母」が恐らく20代と若いことが一つの魅力になっていると思う。かつての母の若さ、というものは、どうしてこんなに切なく思えるのだろう。

☆小林さやか歌集『空から来た子』(ながらみ書房、2007年7月刊行)
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2008年01月11日

気負い

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  ひとりにて育てあげんと知らぬまに気負いたり子は花の
  ごと泣く            石川 浩子


 どんな背景があるにせよ、シングルマザーの日常は苛酷である。
 一人で母親と父親の二役を果たすのは、なかなか大変なことだ。本当ならば、父親に叱られたあと、ぎゅっと抱きしめてやるのが自分の役目なのに、「片親の家庭に育っているからしつけがダメなのよね」なんて言われたくなくて、必要以上に子どもに厳しくなってしまう面もあるだろう。
 この作者は、そんな自分に気づくことのできる知的な人だ。自分の「気負い」に気づくことは難しい。気づかせてくれたのは、泣いている子どもである。たぶん、作者に叱られて、しゃくり上げていたのだろう。
 「花のごと泣く」という結句が、心底せつない。泣いている子どもを見ると、小さくて、はかなげで、いとおしさがこみ上げてくる。叱りすぎた自分が情けない気持ちもあるし、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣く子どもが哀れで、自分も一緒に泣きたくなってしまう。
 作者自身が気づいていたかどうかは分からないが、そのとき彼女も「花」のような存在だったに違いない。それは、ひりひりと生きている実感に満ちた瞬間なのである。私にとっては、保育園に通う子どもと二人で暮らしていた時期が「花」だった。私にも「気負い」があり、今から思うと気恥ずかしくてならないが、それはそれで仕方ない。「気負い」は支えでもあったのだから。
 作者はすべての母への思いを込めて、歌集のタイトルを『マザーズ』としたという。シングルマザーへの思いは、ひときわ深かったに違いない。

☆石川浩子歌集『マザーズ』(ながらみ書房、2003年4月刊行)
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2007年12月14日

保育所の時間

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  あめ、あめ、と子はつぶやいてこの雨を見ているだろう
保育所の窓に        松村 正直


 保育所へ送っていった朝は、まだ雨が降っていなかったのだろう。若い父親は、仕事中に降りだした雨空を見上げ、小さな子どものことを思う。二歳くらいだろうか。たぶん「あめ」は、その子にとって覚えたての言葉なのだろう。新しい言葉を使うのは子どもにとってわくわくすることだから、雨が降ると喜んで必ず「あめ、あめ」と親に教えてくれるのかもしれない。
 家にいたなら、「そうだねえ、雨だねえ。雨ふってるねえ」と一緒に外を眺めることができたのに。保育所の先生は、たくさんの子どもたちの相手をするから、一人のつぶやきを聞いて相づちを打つ余裕がないときもあるだろう。もしかすると、「○○ちゃん、そんなところで何してるの。ごはんの時間だよ」なんて言われているかもしれない。きゅんと切ない気持ちになり、この父親は降り続ける雨を眺めている。
 保育所に預けることは、子どものいろいろな場面を見逃すことである。学校に上がれば、どんな親も「見逃すこと」はどんどん増えるのだが、うんと小さい頃には親の状況による差が大きい。
 子どもが生まれて仕事を辞めた友人が、「私は子どもの『初めて』を全部見逃したくないから」と言ったことがある。初めてのたっち、初めてのあんよ……子どもの成長のさまざまな場面に、母親として立ち会いたいのだ、と彼女は微笑んだ。その気持ちはよくわかった。
 保育所に預けていれば、ほとんどの「初めて」の目撃者は先生である。会社から息せき切って迎えに行き、子どものクラスの先生から「△△ちゃん、今日初めて歩いたんですよぉ!」と笑顔で話しかけられたとき、私は口惜しさと寂しさでいっぱいになってしまった。「あ、そうですか、ふうん」なんて先生の顔もろくに見ずに気のない返事をし、子どもをかっさらうように抱き上げ保育所を出た覚えがある。全くおとなげなかった。
 子どもと離れている時間に子どもを思うこと、会える時間をうんと大切にすること。いつもいつも傍にいてやれなくても、「初めて」が見られなくても、きっと大丈夫なのだ。「あめ、あめ」というやわらかい初句に始まるこの歌を読むと、そんな思いが湧き上がってくる。

 ☆松村正直歌集『やさしい鮫』(2006年9月、ながらみ書房)

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2007年11月23日

おばさん

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  子の友が三人並びてをばさんと呼ぶからをばさんであるらし
  可笑し               河野 裕子


 ちょっと前の歌だな、と感じる人も多いだろう。なぜか。子どもが友達の母親を自然に「をばさん」と呼んでいるからだ。私も子ども時代、近所の人や友人のお母さんを「○○さんのおばちゃん」と呼んでいた。しかし、今の子どもは、そう呼ばなくなってしまった。それが何となく寂しい。
 弟の子どもにとって、私は「伯母」であり、「おばさん」と呼ばれて何ら不都合はないのだが、小学4年生の彼女は私を「ユリコチャン」と呼ぶ。「おばさんでいいんだよ。ゆりこおばちゃんって呼んでよ」といっても、頑としてきかない。どうも、口にしてはいけない悪い言葉だと思っているふしがある。
 いつだったか、彼女の友達とそのお母さんに会う機会があった。「今日こそ、おばさんと呼ぶに違いない」とわくわくする私だったが、姪っ子はすまして言った。「あのね、この人、いとこのお母さん!」
 友人の子どもたちも決して私を「おばさん」とは呼ばない。「マツムラサン」か「ユリチャン」である。私が「おばさん」と呼ばれるのは、駅頭や路上でうっかりコワイお兄さんとぶつかって罵声を浴びせられるときだけなのか、と思うと気が滅入る。親しみや愛情をこめた「おばさん」はもう絶滅してしまったのだろうか。
 この歌が収められている歌集の出版は1984年。作者が30代半ばを過ぎたころの歌と思われる。多少は「をばさん」と呼ばれることに抵抗感があったかもしれないが、三人並んだ子どもたちが、口をそろえて呼ぶ様子に可笑しくなってしまった光景が楽しい。
 沖縄の「おばぁ」は、高齢の女性なら必ず呼ばれる呼称ではない、と聞いたことがある。本来は尊敬の念をこめた呼び名であり、誰にでも使われるものではないらしい。ああ、誰か親愛の情をこめて私を「おばちゃん!」と呼んでくれないだろうか。

 ☆河野裕子歌集『はやりを』(1984年、短歌新聞社)

*お知らせ 
「短歌」(角川書店)12月号に、新作8首「葡萄を夢に」が載りました。
 よろしかったら、書店で見かけた折にでも読んでみてくださいね。
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2007年11月16日

みかんの香

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 街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る
                       木下 利玄


 ぐんと寒くなった。寒いのは苦手だが、この歌を思い出すと冬もいいものだと思える。
 教科書にもよく掲載されている歌なので、なつかしく思う人も多いだろうが、歌自体のイメージが非常に鮮明で魅力的なのである。少し乾いた冷たい空気の中に、ふっと柑橘類の香りが漂う。それはすれ違った子供から香ってきたのだ。「ああ、もうすぐ冬だ」という思いは、晩秋の寂しさや冬支度への心づもりなどがないまぜになったものだろう。
 木下利玄という人は、子供が好きだったんだろうな、と思う。「遠足の小学生徒有頂天に大手ふりふり往来とほる」といった生き生きとした表現を見ると、子供の様子をよく観察していることがわかるからだ。
 「蜜柑の香」のする子供に出会うことは、今ほとんどない。電車の中でガムを噛んでいる子供の口から、人工的なブルーベリーやヨーグルトのフレーバーが強く匂ってきてたじろぐことはあるが、利玄のようなさわやかな経験はなかなか出来ない。街の中に、さまざまな匂いが溢れかえっていることもあるだろう。JR総武線のある駅では、ファーストフード店が近いのか、電車の扉が開くと必ず揚げ油の匂いがうわーっと車内に流れ込む。そういえば、私はコンビニエンスストアのおでんの匂いが苦手で、冬になるとおでんを販売する店には入らないことにしている。
 数日前、散歩の途中で小学校の脇を通ったら、枯れ葉と濡れた土の混じった匂いがしてなつかしかった。日の傾きかけた校庭で、子供たちはいつまでも駆け回ったり鉄棒で遊んだりしていた。私にとって最も晩秋を思わせる匂いというのは、あの匂いなのだ。
 
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2007年10月05日

紅玉

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   紅玉のような母たち子らよりもつやつや悦楽の心光らす
                    古谷 円
 

 リンゴの中では、何と言っても紅玉がおいしいと思う。傷みやすいのか、店頭に並ぶ時期は短く、あまり大量に出回らない。そして、他の品種よりもやや高いのがカナシイ。焼きリンゴやジャムに適している品種なのだが、これを丸かじりするのが好きである。
 オルコットの『若草物語』の初めの方に、次女のジョーが屋根裏部屋で本を読みながらリンゴをかじるシーンがあり、子どものころからジョーになりきってリンゴをかじっていた。エリナー・ファージョンの『リンゴ畑のマーティン・ピピン』も大好きな物語で、紅玉を食べるたびに「イギリス人が自慢するコックス・オレンジ・ピピンというのは、こんな味ではないかしら」と想像する。
 そんな紅玉ファンの私だが、この歌には戸惑った。「紅玉のような母たち」とは、どんな女たちなのだろう。甘ったるくなくて、適度な酸っぱさを備え、きびきびと立ち働く……? よく子どもの頬を「リンゴのようなほっぺた」と形容するが、ここでは、母親たちの方が子どもたちよりもリンゴのようにつややかに、「悦楽」を得ようと貪欲に生きている、といった意味にとった(ルビーの意味の「紅玉」ではないだろう)。「悦楽」の内容は読む人次第。女性のしたたかな一面を鋭く突いているが、作者はよい人なので、それほど意地悪な気分ではなく、同性のそういう面をおもしろがって詠んだように感じる。だから、酸味のさわやかな「紅玉」なのだと思う。ちょっと小ぎれいで、ちゃっかりしていて憎めない「母たち」。「私も紅玉かもね」と思う作者の、おっとりとしたやさしさも感じられ、不思議な魅力が漂う。

☆古谷円『千の家族』(角川書店、2007年1月出版)

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2007年09月28日

母も育たねばならず

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 棘(とげ)だつものいくつもつけて帰り来しわが外出着(そとでぎ)に吾子よさはるな
                 五島 美代子


 家の外に出ると「棘だつもの」がいくつもいくつも、くっついてくる。だから、帰宅したばかりの自分に子どもが抱きつこうとしたとき、それを制するのである――。一首の意味は、大体こんなところだろう。
 作者は『母の歌集』などで緊密な母子関係を詠った歌人。長女を亡くした深い悲しみを詠った歌があまりにも有名なので、私は長らく「母子が一体になったような、愛情あふれる古いタイプの母」というイメージを抱いていた。しかし、この歌を見つけて「おや」と思った。
 確かに、やわらかで純粋な子どもを守ろうとする感じはあるが、どことなく外出後の自分にある猛々しさをよきものとして思う気持ちもあるように感じたからだ。「わが外出着」とあるが、ここは「われ」と同じと考えてよいだろう。
 これは、子どもに対する愛情の歌というよりは、むしろ自分と子どもとの距離を詠った作品ではないだろうか。子どもに触れられることを拒むような何かが、自分の中にあるという事実を見据えているように思える。

 子よ母も育たねばならずある時のわが空白に耐へて遊べよ

 作者にはこんな歌もあるが、まさにワーキングマザーたちの心を代弁したような内容である。子どもにとって、保育園に預けられている時間は「わが空白」かもしれない。でも、そこにはきっと別の「充実」もあるはずだ。そして「母も育たねばならず」なのである。母の「空白」は、仕事に限らず、いろいろな活動であって構わない。
 「母の歌人」と呼ばれる五島美代子に、新たな興味が湧いてきた。
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2007年08月31日

ほころび

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 一日(ひとひ)にて別るる吾子のほころびを着たるままにてつくろひやれり
                 三ヶ島 葭子


 三ヶ島葭子は、明治の生まれ。明治三十年ごろから大正にかけて「女子文壇」や「アララギ」で活躍した歌人である。病気がちで、幼い一人娘も夫の実家に預けなければならない境遇だった。この歌は、子どもが6歳だったころ、久しぶりに再会した際につくられたものと思われる。
 「一日にて別るる吾子」というのは誠に哀切である。そして、「着たるままにてつくろひ」は、子どもと過ごす時間が限られていることを何よりも示していると思う。というのも、ほころびは本来「着たるまま」でなんて繕ってはいけないものであり、きちんと着物を脱いでから繕うべきものだからである。
 外出する間際になって、もう身につけてしまった服のボタンが取れていたりスカートの裾がほつれていたりするのを発見!という事態はよくあることだ。私が子どものころ、こういう状況が生じると、母は針と糸をもってきて玄関先で繕いながら、立ったままの私に必ずある文句を唱えさせた。
 「わたくしは つねにいそもじひまもなく
    きてほころびぬうも めでたしめでたし」
 「いそもじ」は「急文字」で忙しいこと。「しゃもじ」や「ゆもじ」などと同様、女房ことばである。「私はいつも忙しくて暇がないので、こんなふうに着たままで綻びを縫う時間を持てるのも喜ばしいことです」といった意味だろうか。
 母は、この文句を江戸っ子だった祖母(私からすると曾祖母)から教わったそうだ。恐らく、着たままで繕うというお行儀の悪いことをする言いわけのような、あるいはおまじないのような言葉だと思うが、出典などはまるで分からない。どなたかにご教示いただければありがたい。
 先日、三ヶ島葭子の作品鑑賞を読んでいたのだが、この歌に関しては上の句の哀れさが強調され、下の句については「よくある場面だが」という感じでさらりと済まされていた。けれども私は、「着たるままにて」には、幼い子の世話を思うようにしてやれない後ろめたさ、無念な気持ちが濃く表われていると感じる。私の曾祖母と同世代だった葭子は、「ああ、着物を着たままで繕ってやるなんて……」と嘆息する思いだったのではないかと思うのである。
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2007年08月24日

恐竜の骨

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 子が愛づる恐竜の骨わが呼ばふ鳥彦の羽うつつにしなふ
                 今野 寿美


 幼稚園から小学校低学年くらいの男の子を大別すると、「乗りもの」派と「生きもの」派に分かれる。「乗りもの」派は、列車や自動車、飛行機などをこよなく愛し、「生きもの」派は、昆虫や恐竜に胸ときめかせる。どちらに属するにせよ、彼らはたいそう情報収集と個体分類の能力に長けている。自分の興味のある対象を図鑑や道端で発見した際、幼い彼らが瞬時に微細な差異を見分け、いとも正確に判別することにはただただ驚かされる。
 こうした特徴が、決して同年代の女の子に見られないことは長年の謎だ。最近は、鉄道マニアの女性「鉄子」さんの存在も知られるようになったが、電車の中で母親の手をひっぱり、「ねぇねぇ、あれは、何線? あれはぁ?」としつこく訊ねているのは決まって男の子である。
 この歌の「子」は、「生きもの」派のようだ。恐らくは息子だろう。「鳥彦」は「鳥」を親しんで呼んだ名である。「彦」は「日子」であり、「姫」に対する語。恐竜の大好きな男の子と、鳥の好きなお母さんを並べて詠いながら、恐竜の生きた時代から現代に至る年月をはろばろと感じさせる気持ちのいい歌だと思う。ちょっとずるいのは、「子」も男の子、「鳥彦」も男の子なので(恐竜は??)、お母さんが男の子ばかりに囲まれている甘やかな感じがあること。
 私の息子も「生きもの」派だった。高校生になった今、古生物学者になる夢はあきらめたが、彼の携帯メールのアドレスは、肉食恐竜ヴェロキラプトルの学名、Velociraptor mongoliensis で始まる。

☆今野寿美歌集『鳥彦』(雁書館、1995年8月刊行)
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2007年08月10日

ももいろのきりん

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 父の字で私の名前が書いてある
  『ももいろのきりん』のカバー思えり      藤田 千鶴


 『ももいろのきりん』は、福音館書店から出版されている幼年童話。「ぐりとぐら」シリーズなどでおなじみの中川李枝子さんのおはなしに、ご夫君の中川宗弥さんが絵を描いた名作である。
 おそらく、この歌の作者にとって『ももいろのきりん』は、幼い日に読んだ中でもとりわけ好きな本で、大切な存在なのだろう。その本に、父が自分の名を書きこんでくれたことで、さらに特別なものとなった。
 私も『ももいろのきりん』(1965年7月1日発行の初版本)=写真=を持っているのだが、幼いころ両親や近しい大人から買ってもらった本には、特別ななつかしさがある。「多分この子は、こういうおはなしが好きではないかな」と選んでくれた、そのことが、大人になってしまった今、何とも言えずありがたく嬉しい。本の好みはそれぞれだから、大人になれば、人はもうなかなか本をプレゼントしてくれないものだ。

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 この歌は、作者が両親を伴って海外旅行したときの作品である。父親はがんの治療中という。作者は残り少ない時間を大切にしよう、と考えて旅を計画したのだ。旅の一連の中には「いずれ我を置いてゆくひと影うすくエメラルド寺院の階のぼりゆく」という胸に迫る歌も収められている。
 そういう旅のさなかに、ふと『ももいろのきりん』を思い出す不思議さを思う。父が選んで買い求め、子どもの名を記し、何度も読んで聞かせた本は、父の愛情そのもののようだ。私も小学校高学年になるまで、買ってもらった本に日付と名前を父に書いてもらうのを常としていた。この歌を読み、いつか父と別れ、本だけが残される日が来ることを思って、じんわり悲しくなった。


☆藤田千鶴歌集『貿易風』(砂子屋書房、2007年7月刊行)
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2007年07月19日

「とんとん」と「くわんくわん」

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 吾の足を抱へしままに寝(いね)し子よ次は一番にとんとんするね
                  山下れいこ


 作者は保育士として長く働いた人である。お昼寝の時間だろうか、たくさんの子どもたちを寝かしつけていて、一人の子はとうとう先生にかまってもらえないまま、その足に抱きついて寝入ってしまったようだ。不憫に思った作者は、「今度のお昼寝のときは一番に…」とそっと心の中で約束しているのである。
 この「とんとん」は多分、保育園特有のことばだと思う。辞書にはない。小さい子どもを寝かしつけるとき、ゆっくりした呼吸くらいのリズムで「とん…とん…」と背中を軽く叩いてやると、安心するのか割とすんなり寝てくれる。私も息子が小さいとき、「とんとんして!」とよく言われたものだ。
 幼児語には、こういう音を重ねた畳語が多い。ちょっと分類してみた。

 @重ねるだけ    おてて(手)、おめめ(目)、おとと(魚)
 Aはねて重ねる   かんかん(髪)、ぽんぽん(お腹)
 B伸ばして重ねる  たーた(靴下)
 Cつまって重ねる  くっく(靴)

 母や祖母たちのやわらかい口調と共になつかしく思い出すのだが、今はほとんど使われないのではないだろうか。
 ひとつだけ確かめたいのは「くわんくわん」である。状況としては、スパゲティ・ミートソースやジャムのようなものが、子どもの口の周辺にべたべたと付着している。「まあ! お口のまわりがくわんくわん!!」というふうに使う。
 しかし、私の家族以外の人が使うのを聞いたことがなく、以前、何人かの友達に訊ねたところ「そんなことば、知らない。福岡の方言なんじゃない?」と言われてしまった。一人だけ東京出身の人が「知ってる!」と言ってくれたのが救いである。語源としては「食ったのに食わん食わん」から来ている、という説(by 私の母)があるのだが、真偽はわからない。
 どなたか、「くわんくわん」を知っている、自分の家でも使っていた、という方がいたら教えてください!!

☆山下れいこ歌集『水たまりは夏』(青磁社、2006年)
posted by まつむらゆりこ at 11:40| Comment(21) | TrackBack(1) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月29日

子どもの匂い

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もどかしく抱きしめる腕をすり抜けて夕方の子は他人の匂いす
                 松村由利子


 夕方、息せき切って保育園に飛び込む。こちらとしては、ちょっと劇的な再会みたいな感じで子どもを抱きしめようとするのだが、今まで別の遊びに興じていたのか、照れくさいのか、子どもは身をよじって抱擁から逃れる。その瞬間、知らない家の匂いがして、私は置いてきぼりにされたような気持ちになった。
 家には、それぞれの匂いがある。自分の家にも勿論あるのだが、気づくことはできない。それに慣れきっているからだ。毎日同じものを食べていることも関係するだろう。昼間、別々のごはんを食べて、10時間(!)も別のところにいれば、親子であっても匂いが変わる。
 「あ、知らない子の匂いがする」。そう思う瞬間、本当にさみしかった。
 いま思えば私も、知らない女の人の匂いをさせて、子どもを迎えに行っていたのだろう。職場でしみついた煙草やコーヒーの匂いや、ほこりくささをまとって。

 それにしても、改めて時間を計算してみて愕然とした。朝9時に預けて、延長保育の終了する19時まで、10時間! 長い。長すぎる。片道1時間の通勤だったから、仕方ないといえば仕方ないが、幼い子どもにとって、それは何とも耐え難い長さだったに違いない。しかも、私は夜の取材をするために、二次保育のベビーシッターさんに頼むことも少なくなかった。仕事はいつでもできるのに。子どもはすぐに大きくなってしまうのに。

☆『薄荷色の朝に』(短歌研究社)
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2007年06月04日

似るな似るな

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  似るな似るなといひて育ててきた息子
         冷蔵庫にてあたまを冷やす
                  米川 千嘉子


 たった一人の息子であるが、自分には似ないでほしいと思ってきた。だから、この歌を読んで、「あ、同じだ」としんとした気持ちになった。
 生まれるまでは「私にどこが似てるかなー」と楽しみに待っていたが、子どもの自我がはっきりし始める頃、自分には全く似ないで育ってほしいと思うようになった。こんなにも欠点が多く、どうしようもない人間に似てどうするのだ。もっと大きくはつらつと、もっとやさしく伸びやかに生きてほしい。そう切実に願った。
 この歌の作者も、そんな思いを抱いたのだろう。何冊もの歌集を読めば、作者が深く物事を見つめ、不器用なまでに誠実に生きていることがよく分かる。それは実に美しい資質なのだが、彼女自身は子どもにもっとかろやかに、自由に羽ばたいてほしいと思ったのかもしれない。
 そう願って育ててきた「息子」は、「ああ、暑い、暑い」とどしどし台所へ歩いてきて冷蔵庫を開ける。庫内へ頭を突っ込んで「はぁ〜、涼しい〜」と茶目っ気たっぷりの息子を見て、作者は「何やってるの、あなたは!」と呆れて笑いながら、そんな底抜けの明るさをいとおしく思っている。冷蔵庫で頭を冷やすようなことは決してしなかった子どもの頃の自分を思い、作者は安堵するような、さみしいような、そんな気持ちを味わっているのではないか。
 「似るな似るな」と願って育ててきても、何かの拍子に、自分の内面にあるのと同じものを子どもの中に見ることがある。その瞬間に感じる恐れとかなしみは、何ともいえない。

☆米川千嘉子歌集『滝と流星』(短歌研究社、2004年8月刊行)
 
*5日からしばらく旅に出ますので、コメントへのお返事が書けませんが、どうぞお許しください。
posted by まつむらゆりこ at 16:23| Comment(8) | TrackBack(0) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月07日

遊園地

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  観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)
             我には一生(ひとよ)
                  栗木 京子


 遊園地はかなしいところである。予期せぬ事故が起きたからではない。私にとっては、昔からあまり心躍るところではないのだ。
 遊園地で子どもと遊んだあと、別々の家に帰る−−そういう特殊な親子だった。遊園地の非日常よりも、ふつうに家でごはんを作って食べさせ、絵本を読んで寝かしつける日常の方が私には遠かった。
 この歌は恋の歌であり、観覧車は「回る」ところに重きが置かれている。でも、観覧車は「あっ、今てっぺんだよ!」という状態がほんの一瞬であるのも悲しい。
 先日、福岡に帰省したときに、息子や姪っ子たちと観覧車に乗った。「ああっ、今、この瞬間、私たちが一番上よ!」「これからは転落する一方だね」「おごれる者は久しからず」などときゃあきゃあ騒いで、思いのほか楽しかった。高校生の息子は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……」と平家物語の冒頭部分をそらんじてみせて、みんなの笑いをとっていた。
 「大きくなったなあ」と思った。
 早くガールフレンドと遊園地でデートして、いい思い出を作ってくれ。そして、小さいときに母親と二人きりで遊んだ寂しい遊園地の記憶なんか、どこかへやってしまえ。

☆栗木京子歌集『水惑星』(雁書館、1984年10月刊行)
 
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2007年04月29日

親ごころ

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  忽然と電話の主はあさましく黒い感情を保護者とぞ呼ぶ
                棚木 恒寿


 愛することは、執することである。子どもへの愛情も例外ではない。
 親というのはまことに愚かなもので、子どもがほんの赤ん坊の頃でさえ、よその子よりも賢そうに見えたり、運動能力に優れているように思えたりする。私も生後3カ月健診のために息子を病院に連れて行ったとき、月齢の大きな赤ちゃんたちが丸々と太って、何とも憎らしそうに見えたことを覚えている。「おー、うちの子が一番かわいい」と思ったが、何のことはない。子どもが6カ月になれば、そのときが一番かわいく思えるし、1歳になればまた同じように思うのだ。逆に言えば、そういう心理が働かないと子育てはつらいかもしれない。
 この歌の作者は、数学教諭として高校に勤めている。夜遅く自宅に電話がかかってきたのだろうか。電話してきたのは、生徒の親であった。何事かを必死に訴える内容に、若い作者は「黒い感情」を感じてしまう。たぶん、生徒の親が、自分の子どものことを中心にとらえ、他の生徒や教師など眼中にないような話し方をしたのだろう。
 「親ごころ」は尊いものだと考えられている。しかし、それはどうかすると「うちの子さえよければ」という狭い考えに陥る危険性に満ちたものである。年をとると、そんな悲しい愚かしさこそ人間らしさであるようにも思えるのだが、この作者は若くてまだ自分の子どももいないようだ。感情的に語る人そのものを「黒い感情」だと断じたのは、潔癖さであろう。
 短歌に限らないだろうが、そのとき、その年齢でなければ作れない作品というものがある。20代の恋と30代の恋は違う。30代の子育てと40代の子育てもずいぶん違うだろう。若い教師の歌は、多くの親たちをどきっとさせる。


☆棚木恒寿歌集『天の腕』(2006年12月、ながらみ書房)
posted by まつむらゆりこ at 22:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

恐竜の滅亡

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  恐竜の滅亡を子よとくと見よ楽しい日には終わりがあるの

 先日、数年ぶりに再会した友人から、しみじみと「あの歌、好きだわ〜〜」と言われたのが、この「恐竜の滅亡」の歌である。
 自分が作った歌でも、10年以上たつと他人が作った歌のように思える。確か当時は離婚して間もない頃で、私はうんとペシミスティックだった。4歳くらいだった子どもを大恐竜館なるところに連れて行った帰り、ふっと浮かんだ思いを歌にした。「結婚にも、楽しい休日にも、終わりがあるんだよ。君はそんなこと分かんないだろうけれど」
 しかし、いま読み直してみると、自分の歌ながらしみじみしてしまう。「楽しい日」というのは、子どもがとても小さかった日々のように思えてならない。赤ん坊の頃、よちよち歩きの頃……子どもというものは、本当に手がかかる。けれども、あれこれ面倒を見てやれるのは、限られた時間でしかない。あっという間に大きくなり、外の世界へ出て行ってしまうのだから。
 歌をつくっていて不思議なのは、こういうときだ。全く予想しなかったことが起こり、しかも、それが歌の形で先に現れていた、というとき。自分が何気なく選んだ言葉が、あとで深いところにじわじわとしみ込んでいくとき……。恐竜の滅亡を、とくと見るべきだったのは私の方であった。もっともっと、小さかった子どもを抱きしめ、一緒に絵本を読んだり歌ったりする時間が欲しかった。

☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(1998年、短歌研究社)
posted by まつむらゆりこ at 17:00| Comment(10) | TrackBack(0) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月23日

「ジブン」

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 慈しむ手間を母より奪い去り八朔をむく三歳の「自分」

 この歌は、子どもが「自分」を連発するようになった三、四歳の頃に作った。ついこの間やっと立って歩き始め、まだ何にも一人でできないくせに、ことあるごとに「ジブンで」「ジブンで」と主張する生きものには呆れた。「ジブン」という言葉の響きを初めて聞いたような不思議な感じがした。
 柑橘類は私の好物である。中でも好きなのが八朔(はっさく)で、春先はせっせと買って食べる。編み物や刺繍などの手仕事は苦手だが、誰かのために八朔の皮をむいていると何だかまめまめしい働き者になったようで嬉しくなる。
 だから、子どものために八朔をむく時間というのは私にとって、とてもやわらかで心落ち着くひとときだった。歯みがきや着替えは、いずれ一人でできるように仕向けなければならないが、八朔をむくのは「愛情深い母」を演出するうえでも、結構気に入っていた作業だった。「これも自分でやりたいって?」とがっくりしながら、私は「あ〜、子どもは本当にすぐ大きくなっちゃうんだ。親がしてやれることなんて、わずかなんだなあ」と思った。
 店先で明るいオレンジ色の果実を見ると、子どもの幼かった頃を思い出す。あんなに小さいうちから、自立心というものは育ち始めるのだ。そして、人はみな一人で生きなければならない――いろいろなことを、あの小さな男の子から教わったなあ、と思う。

☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社)
posted by まつむらゆりこ at 15:36| Comment(7) | TrackBack(0) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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