2007年01月08日

出産

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  しずかなる医師のことばを聞いているわれは
              ひかりを産んだのだろうか
                        江戸 雪



 友人からの年賀状に「春には家族が増えます」と書かれているのを読み、嬉しくなった。しかし、ふと「大丈夫かな、大丈夫だとは思うけれど……」とも思った。お産には思わぬ事態が起こることもあるからだ。
 臨月になって突然、胎児の心音が聞こえなくなったケースが身近にあった。早産や流産、死産を経験する人が少なくないことも取材で知った。当事者がつらい体験をあまり語らないため、それほど多いと思われていないだけである。
 母親になる女性が、どんなに自分の健康に気をつけていても、悲しいことは起こり得る。それは恐らく、誰にもわからない、さまざまな条件が整わなかったのだ。けれども、女性たちはどれほど自分を責めることだろう。
 この歌の作者は、死産という事実にただ茫然としている。一首に漂う、世界のすべてが止まったような静けさと奇妙な明るさが、読む者の心をもきりきりと締めつける。
 春に出産する予定の友人は、会社勤めをしている。忙しい職場で、あまり仕事を減らしてもらえないと漏らしていた。男たちは、妊娠しさえすれば子どもは無事に生まれてくると信じ込んでいるふしがある。そんなことは決してない。いかに医学が進歩しても、周産期医療の現場には特別な厳しさがある。
 「どうぞ、どうぞ、無事に生まれますように」。友達や会社の同僚たちが妊娠すると、いつも出産間際まで祈った。本人たちが知ったら「縁起でもない」と思うかもしれないが、お産の怖さを知る私は、最後の最後まで安心できない。春によい知らせがありますように、と祈っている。


☆江戸雪歌集『Door』(2005年、砂子屋書房)
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2006年12月12日

とおい母

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  オオオニバスの葉には子どもがひとりずつ
  座りてとおい母を待ちおり         中津 昌子


 出産直後だって、自分の子どもが自分から生まれてきたとは信じられなかった。「ふーむ、この60兆個の細胞のすべてが私の体内で形成されたとは(赤ん坊はもうちょっと少ないと思うけれど)」なんて思いながらしげしげと眺め、不思議でならなかった。
 オオオニバスは、直径1メートル以上にも及ぶ葉を水面に浮かべる。子どもならその上に乗ることができる、ということが確か小学校の教科書に載っていた覚えがある。何の教科だっただろう。巨大な湖面にぽつんぽつんと浮かぶ大きな葉に、幼い子どもが体操座りをして何かを待っているイメージには、何ともいえず胸に迫るものがある。根源的なさみしさ、とでも言おうか。
 この世界は、ひどく不完全で痛みに満ちたものだから、誰もが「とおい母」を待っているのではないだろうか。最初に読んだころは、「子どもたちを育てるのはその親だけではないのだ」なんていう理屈を考えもしたが、今はオオオニバスの葉の上で膝をかかえている自分の姿が見える。不安と寒さにふるえながら「とおい母」を待っているのは、自分も、自分の子どもも同じなのである。親であっても、子どもの乗っている葉には一緒に乗れない。
 「とおい母」はゴドーみたいなものかもしれない。

☆中津昌子歌集『風を残せり』(1993年、短歌新聞社)
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2006年11月10日

食べさせる

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  子の食べる一匙ごとのうれしさに茶碗蒸しにはこびとが棲むよ
                    小守 有里



 食の細い子どもがいる。その中には、一度にたくさん食べられないたちの子もいるし、食べるよりも遊ぶことが大好きで、落ち着いて食べない子もいる。
 私の弟は後者のタイプだった。6歳下なので、幼児期の弟の姿をよく覚えているのだが、ともかく動き回る子どもで、じっと食卓についていない。2歳か3歳だったころの彼は、ごはんどきにはいつも幼児用の椅子にふろしきでくくりつけられていたものだ。
 この歌では、幼い子どもがいつになくぱくぱく茶碗蒸しを食べるのが嬉しくって、母親である作者の心が弾んでいる。「おお! おいしいねえ! ほーら、この中にいるこびとさんもすごいすごいって言ってるよぉ」なんて話しかけている様子が目に浮かび、にこにこしてしまう。
 途中まで状況説明をしていて、下の句では母親の台詞に変わっているのだが、そのねじれは全く気にならない。前半では作者が状況を客観的に把握しているのに、後半は眼前の子どもとの二人の世界にぐーんと入り込んでしまうのが、この歌の魅力といえるだろう。
 子どもがごはんを食べないときの母親というのは、かなり悲しいらしい。離乳期を迎えたころの私は、パン粥は喜んで食べるくせに、お米の粥はあまり好きでなく、スプーンで口に入れられても「べーっ」と吐き出していたそうだ。母は「この子が将来もお米を食べなかったらどうしよう」と悲観していたという。
 後年その話を聞いたときは、「そんなこと、あるはずないでしょ!」と大笑いしたが、初めての子どもを育てる母親というものは、そんなにも思いつめてしまうのだ。さんざん親不孝してきた私の、最初の親不孝がそんな早期に始まっていたことを、ただただ申しわけなく思う。

☆小守有里歌集『こいびと』(2001年、雁書館)
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2006年10月13日

寝かせる

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  遊びたい寝るのは嫌と子は泣けりこんなにわれは眠りたいのに
                    吉川 宏志


 全く子どもというものは、どうしてあんなに寝るのが嫌いなのだろう。そして、早く寝かしつけて持ち帰った仕事を片付けたいときなどに限って、魔物がついたのかと思うほどいつまでもはしゃいで寝ないのだった。自分の方が眠気に勝てなくて、結局朝まで一緒に寝てしまうことも少なくなかった。
 この歌の作者も、そんな状況を抱えているのかもしれない。一緒に寝てしまえれば、まことに幸福なのだが、そういうわけにはいかない。明日までにしておかなければならないことをあれこれ抱え、しかし疲れた体は深い眠りに引き込まれそうになっている。「いったい全体、こんなに寝ないなんて、この子はどうなっちゃってるんだ」と憎たらしく思うことも、親ならば誰もが経験することだ。歌を読むと、困り果てている父親の顔が浮かび、笑ってしまう。
 息子が3歳くらいのとき、夜寝かしつけていてようやく静かになったので「寝たかな?」と顔を見たら、目をぱっちり開けて天井を向いていたことがあった。がっかりしたのと腹立たしいのとで、私は「どうして寝ないの!」と声をとがらせた。すると、彼は「なんか……なんか、あそびたい」と言ったのである。その答えに私は脱力してしまった。
 そうか、子どもってエネルギーに満ちていて、いつまでも遊びたい生きものなんだ。そう納得したとき、自分が本当に大人になってしまって、そのエネルギーにかなわないことが心底さみしかった。

☆吉川宏志歌集『海雨』(2005年、砂子屋書房)
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2006年09月16日

離れ住む

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  息子よ、はにかみてそしてためらいて手をつなぎくる、
   爪が長いね          松平 盟子


 離婚して子どもと暮らせなくなるのは、本当に悲しくやりきれないことだ。これは、離婚後しばらく会えなかった小さな男の子と再会した母親の歌である。
 作品の解釈というものは必ずしも一つではないが、あまりにも他の人と違う読み方をするのはよくないだろう。私は長い間、この歌を間違って解釈していた。ちょうど自分が子どもと離れて暮らすようになった頃に発表されたこともあり、非常に共感をもって読んだのだが、最後の「爪が長いね」は母親の嘆きかと思って読んでいたのである。
 1カ月に1度会う息子の爪が長く伸びていると、私は何だか胸が締めつけられるようだった。自分は何の世話もしていないくせに、子どもを不憫に思ったりした。小さな爪切りをいつもカバンに入れておき、会うと必ず爪を切ってやるようになったが、ある時ふと、「もしかすると、先方は私のために、わざと爪が伸びたままでこの子を送り出してくれているのかもしれないな」と思った。実際、子どもの爪を切る、その時だけ私は母親らしいことをしているという満足感を味わっていたからだ。
 こんなふうに爪についてあれこれ考えていたので、この歌について、久しぶりに会った母親のきれいに伸ばした爪を見て、子どもが不思議そうに「爪が長いね」と言った場面だという批評を見て、非常に驚いた。なるほど。離婚した作者が「母」というよりも「女」になったことを、長い爪が象徴しているのである。私の解釈だと、登場する母親はまるっきり野暮ったくて垢抜けない。「何でお母さんの爪、こんなに長くなっちゃったんだろ」と首をかしげる男の子に、嫣然とほほ笑む母親の何と悲しくも美しいことだろう!

☆松平盟子歌集『プラチナ・ブルース』(1991年、砂子屋書房)
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2006年09月09日

わが子

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  子に送る母の声援グランドに谺(こだま)せり わが子だけが大切
                  栗木 京子


 運動会はいいものだ。子どもたちが一所懸命に走ったり踊ったりする姿を見ると、胸が熱くなる。
 作者は子どもの運動会に行き、他の父母たちと同じように「○○ちゃーん、がんばって!」と声援していたのだろう。そして、はっと気づく、「この声援のひとつひとつは、『わが子』に向けられたものなのだ」と。
 「わが子」という言葉、あまり好きではない。何だか甘ったるい。そして、他を排除するような響きがある。週刊誌の見出しに「難病に苦しむわが子と共に20年」「わが子を殺した鬼のような母」といったフレーズを見ると、むずむずして落ち着かない。必要以上に、母親と子どもをくっつけようとしていると感じてしまう。
 この作者もきっと「わが子」の甘さを知っている。けれども、敢えてその言葉を使い、「わが子だけが大切」とぬけぬけと言ってみせたのは、自分も含めた親というもののエゴイスティックな思いを強調したかったからだろう。「私もそうですけれど、親って自分の子どもしか見えていないんですよね」。そう言いながら、作者はしんと悲しい気持ちを抱えている。「父母」でなく「母」としたところには、自らを省みる気持ちも表れているようだ。
 多分、「わが子だけが大切」は出発点なのだと思う。それを深く自覚したところから、何かが始まる。自分の子どもを大切にできない人間が、その子と同じ学校に通うたくさんの子どもたちや、悲惨な状況にある遠い国々の子どもたちについて考えられるはずがない。もしかすると、「わが子だけが大切」という自覚は、謙虚になることでもあるかもしれない。「すべての子どもが大切に決まっている」という建前、偽善を捨て、一人の弱い親である自分を見つめること。私もそこから始めたい。

☆栗木京子歌集『綺羅』(河出書房新社、1994年4月出版)

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2006年09月05日

子どもの匂い

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  太陽のかおりがするね日向から帰って抱きつくおまえの髪は
                  久保 剛


 子どもの髪は本当にやわらかくて、つやつやしている。そして、何ともいえない、いい匂いがする。「抱きつく」のは、作者の小さな愛娘である。この歌を読んで「いや、恋人かもしれないじゃないか」という人もいるかもしれないが、日向のにおいをさせているのは、やっぱり子どもだろう。そして、その子が男でなく女の子であることが、一首全体の甘やかな雰囲気から何となく伝わってくる。ここが短歌のちょっと不思議なところだと思う。
 先日、電車に乗ったとき、向かい側の席に5歳くらいの女の子とお父さんが坐っていた。長い髪を二つに分けて結わえた女の子は、お父さんの片腕に自分の両腕を巻きつけ、ぴったりと寄り添っている。二人は何を話すでもなく静かに坐っていたのだが、その満ち足りた様子にこちらまで幸福感を味わった。「ああ、あんなにお父さんのことが好きなんだ」と思うと、何だか胸がきゅっとなった。
 この歌の作者には、三人の子どもがいて、二人は男の子、一人が女の子である。「太陽のかおり」をさせて駆けてきたのは末っ子の女の子だが、今は思春期を迎えたころだろう。もう「日向から帰って抱きつく」ことはないかもしれない。けれども、父親にとって娘というものは、いつまでも「太陽のかおり」をさせているものではないかと思う。

☆久保剛歌集『冬のすごろく』(角川書店、2001年6月出版)

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2006年08月18日

縄文の時間

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子を抱きて穴より出でし縄文の人のごとくにあたりまぶしき
            花山多佳子


 子どもが赤ん坊のころ、女の世界は小さい。子どもは、おっぱいだけでなく、母親の時間をむさぼって大きくなるから、必然的に女は子どもの世話に明け暮れる。たまに外出すると、何だか外の世界がまぶしい。自分と子どもだけの狭い穴ぐらに閉じ込められていたような気持ちになってしまう。
 産休や育休を取得して職場を離れている女性たちは特に、こんな気分になるに違いない。かつての同僚たちがはつらつと働いている様子がまぶしく、乳臭くなった自分が鈍重な生きものに思えてならない。「ああ、私も以前は手帳にスケジュールをびっしり書き込んで、飛び回っていたのに……」
 けれども「縄文の人のごとく」生活するというのは、何と豊かなことだろう。自分の食べるものは自分で調理し、子どもの体温と共に眠る。季節の移り変わりに伴う空の色の変化を感じ、風のにおいをかぎ分ける。小さな世界は、充分に深くて濃い時間に満ちている。
 今の時代、小学生にもなればお稽古ごとに追われ、なかなか「縄文」の子どものようにはいかない。男たちもなおのこと、忙しいことを誇りのようにせかせかと生きる。縄文時代のようなゆったりとした時間をもつことは、女たちの強みと思いたい。職場復帰すればみな育児と仕事の両立に忙殺されてしまうのだが、一度でも経験した「縄文」の時間は、心の隅でずっと美しい光を放つに違いない。

☆花山多佳子歌集『楕円の実』
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2006年07月26日

男の子育て

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何もせぬ男を父よと子が呼びぬ不意に怒りは子へも向きゆく
                  森尻 理恵


 人間とは不思議なもので、自分以外に誰もいなければ一人でいろいろなことをやりおおせるのだが、誰かが近くにいて、自分がきりきり舞いをしているのに涼しい顔をしていると腹が立つ。職場でも家庭でも同じである。
 この歌を読み、「そうそう! そうなのよ」といたく共感を覚える女性も多いだろう。休日の午後、自分が掃除やら料理やらに追われている横で、夫は新聞やテレビを見てくつろいでいる。幼い子どもが「パァパ」なぞ甘えた声で呼びかけ、「ん? なぁに」なんて生返事をしている様子を見ると、頭にかーっと血が上る。「ちょっと! 少しは手伝ってくれてもいいんじゃない?!」「○○ちゃん、何そんなに散らかしてるのよ!!」
 私は何人もの友人から「いっそ最初からいなければ、自分ひとりでやって平気なんだろうけどね」「いるとホント目障りなんだよね」という言葉を聞いてきた。そこにあるのは、夫に対するあきらめ、失望、軽い憎しみなどだった。
 育児休業法が施行されたのは1992年4月。いまの日本の労働環境を思うと、男たちがいきなりスウェーデンなどの男みたいに家事や育児を分担するようになるとは到底思えない。でも、日本の女たちだって、夫にそれほど過大な期待をしているわけではないと思う。立ち働いている妻の姿が見えないかのように振る舞う無神経さが、かなしいだけなのだ。「あ、俺は何すればいい?」「洗濯もの干すの手伝おうか」といった一言、気配りがあれば女は手もなく喜んでしまう。それは愛情でもあるが、生活をともにするパートナーへの最低限の礼儀でもあろう。
 たとえ「あら、いいわよ。坐ってて!」と言われたとしても、それは夫の一言がものすごく思いがけなくて嬉しかったために、つい笑顔になってしまっただけ。ゆめゆめ「彼女は家事が好きなんだなぁ」なんて思うことなかれ。女性の方も、夫が「何もせぬ男」になってしまう前に、上手に手伝わせるテクニックを編み出さなければいけないのだろう。

☆森尻理恵歌集『グリーンフラッシュ』(青磁社、2002年8月出版)
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2006年07月14日

いろいろな子供

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言葉もたぬ娘は五歳うつつなる人魚姫かも水を見ている
                  鈴木 英子


 作者自身の書いたものによると、「言葉もたぬ娘」は3歳のころ「自閉傾向」と診断された。恐らく発達障害を伴う自閉症だろうという。
 意味のある言葉はほとんど出ないが、本人の意思表示として時に大きな声を出したりするのを、母親である作者は「宇宙語」と呼んでいる。この歌の「人魚姫」にも、この星でない、どこかから来た不思議な女の子、というふうに自分の子をとらえているまなざしが感じられる。海か湖を「あそこに帰りたいなぁ」と見ているような、所在なげで清らかな女の子の姿が目に浮かぶ。
 別の星から来た子どもにとって、この世界は何と不快で恐ろしいところだろう。自動車の騒音に耐えられない子もいれば、太陽がまぶし過ぎる子もいるだろう。セーターもシャツもみんなちくちくと皮膚を刺すとしたら、不機嫌になるのも無理はない。
 「いろいろな人がいて当たり前」という建前は共有されているが、狭い意味での「いろいろ」である場合が多いような気がする。また、自宅と会社を往復するだけの日々では、いろいろな人に会いたくても会えないという現実もある。通勤時間帯の満員電車に乗るのは身体頑健で精神的にもタフな人が多いから、ごくたまに「おちょちょー!」などと叫ぶ子どもが乗っていると、どきどきしてしまったりする。障害のある子どものお母さんが、人にじろじろ見られるのが嫌であまり出かけないという話を聞くと胸が痛む。「人魚姫」のお母さんは、さまざまな病人がいて当たり前の「大学病院」のような世の中になればいいなあ、と記している。

☆セレクション歌人『鈴木英子集』(邑書林、2005年8月出版)
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2006年07月12日

わたしと子供と

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子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る
                     河野 裕子


 ああ、これは若いお母さんの歌だなあ、と思う。子供が自分なのか、自分が子供なのか、分からなくなるほど一体化して夢中で子育てしている様子がまざまざと浮かぶ。この夢中さは、若いときでないと得られないものだ。
 晩婚化が進み、それに伴って出産年齢も高くなっている。ある程度、自分の仕事を達成したり、人生経験を積んだりしたうえで、子供をもつことはよいことだ。落ち着いて自分と子供を見つめながら、ゆったりした時間を楽しむ余裕ができる。けれども、子育てはそう単純なものではない。情報化時代の今、育児に関する知識や情報はいくらでもあるが、それが却って親たちを混乱させたりもする。そして、年をとると、当然のことながら体力がなくなってくる。
 息子を保育園に通わせていた頃、私は30代前半で、今から思えば随分若かったのだが、ふと深い疲れを感じることもあった。遊び足りない子供が近所の小学校の校庭で駆け回っていた夕方、追いつこうと走っていた私は、ぱたりと止まった。息が切れて、もう追いつけない。嬉々として駆けてゆく子供の姿が遠く見えたとき、この歌を思い出した。
 晩婚化の一方で、非常に若くして産むお母さんたちも増え、出産年齢の二極化が指摘されている。うんと若いときの子育ては、知識も経験もなく戸惑うことが多いかもしれない。「もっと遊びたかった」「満足するところまで仕事をしたかった」という後悔を抱くこともあるだろう。しかし、小さな子供と一緒に成長する喜びや熱といった贈りものがきっと与えられるはずだ。

☆河野裕子歌集『桜森』(蒼土舎、1980年8月出版)
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2006年07月10日

子供のことば

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納豆は「なんのう」海苔は「のい」となり言葉の新芽すんすん伸びる
              俵 万智
 

 言葉を覚え始めた子供は面白い。人間の言語獲得のプロセスをこうまでつぶさに観察できる機会はめったにあるものではない。子育てにそれほどかかわらない父親たちは、ものすごく損をしていると思う。
 だいたい2歳くらいで単語を話し始める子が多いが、中にはもっと遅い子もいる。うまく発音できない言葉もあれば、単語の中で子音や母音が入れ替わることもあり、非常に興味深い。
 「ばんそうこう」を「ばんこーそー」、「プレゼント」を「プゼレント」などと言い間違えるのは、一音がそのまま入れ替わっているので分かりやすいが、2歳ごろの息子が「くむら」と言ったときは初め何のことか分からなかった。「くるま(KU・RU・MA)」の「R」と「M」が入れ替わっていると判明したときは妙に感心した。
 当時の息子の言葉を記録したノートには、「ぽっくとーん(ポップコーン)」「じゅんびたんじょう(準備完了)」「でれにーらんど(ディズニーランド)」などが書かれており、いま見てもふき出してしまう。あるとき、私が「リップクリーム」と言うのを真似ようとしてどうしても言えず、何度か試みた後、いきなり「行ってきまーす!」と叫んだことがあって驚いた。促音や伸ばす音の位置が全く同じ語を、よく思いついたものだ。
 子育て中は忙しくて日記をつけたりするのは大変だが、「あれっ」と思った言葉だけでも書きとめておくと後で楽しい。言い間違いも愛らしいし、大人には考えつかないような詩的な言葉を言うこともある。記録しておかなければ、子供はすぐに「なっとう」「のり」と言えるようになり、親もそれ以前の発音のことなど忘れてしまうかもしれない。でも、「なんのう」「のい」というメモがあれば、どれほど年月が経とうと親は必ず、納豆とごはん粒だらけになってにこにこしていたときの子供の顔を思い出す。

☆俵万智歌集『プーさんの鼻』(文藝春秋、2005年11月出版)
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2006年07月05日

地球はもうダメ?

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 地球はもうダメだと子ども言い放ち公文の算数解きにかかりぬ

 息子が小学2年か3年だった頃の歌である。そんな小さな子がため息まじりに「地球はもうダメだ」なんて言うこと自体にびっくりしたのだが、ほどなくけろっとした顔で算数の問題を解きにかかった彼の姿を見て、また驚いた。
 「明日の地球よりも、今日すべきこと」みたいな大人びた割り切り方が可笑しくもあった。けれども、このひと言は長く私の中に残っている。
 自分と子どもでは、随分と世界観が違うのだろうな、と思う。例えば戦争について考えてみると、小学生の私にとって「せんそう」は両親の経験した第二次世界大戦であり、「二度と起こしてはならない過去のもの」だった。ベトナム戦争についてはおぼろげにしか分かっておらず、「あれは別」と世界が平和であることを信じていた。ところが、1990年生まれの子どもは、小学生の時からいろいろな情報を持っていて、日本が戦争と関わっていることも知っている。
 環境問題への意識や自然観も、今の子どもたちは大人よりもシビアではないかと思う。けろっとした顔で遊んだり勉強したりしていても、深いところで危機感や絶望感を抱いて生活しているのだろう。
 親が子どもにしてやれることなんて、本当に小さな事柄ばかりだ。

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年06月29日

寒けき世

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あはれあはれ寒けき世かな寒き世になど生みけむと吾子見つつおもふ
                     岡本かの子


 さまざまな事件や事故が起こる。新聞やテレビは早く結論を出さなければならないので、したり顔のコメントや分析であふれている。電車に乗れば、興味本位の見出しが雑誌広告に躍る。本当に気が滅入る。
 あの岡本太郎の母であり、作家、歌人として活躍したかの子も、「ああ、寒々しい世の中よねえ。どうしてまたこんな寒々しい世に子どもを生んでしまったのかしら」と嘆いている。かの子はリフレインの使い方のうまい人で、この歌も、ほとんど一つのことしか言っていないのだが、それが哀切な感じを強めている。
 いつの世も、親の思いは変わらない。地球環境はどんどん悪化するし、国際紛争はなくならない。年金制度は危ういし、この国の未来はどうなるのだろう。考えれば考えるほど憂鬱になってしまうが、だからと言って子どもを産むことがむなしいとは思えない。自分の子どもでなくても、汗びっしょりになって駆け回る姿や、楽しそうに数人でおしゃべりしている姿を見ると、何だか嬉しくなる。友達の子どもたちが、ちょっと会わないうちにどんどん成長するのも頼もしくって愉快である。自分たちの代で世界が終わるなら別だけれど、もう少しましな世の中にしなくっちゃ、という気にさせられる。子どもの存在そのものが喜びなのだ。

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2006年06月28日

いい子

0628flowers.JPGそんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから
                               小島ゆかり


 子どもは油断がならない。ほっておくと「いい子」になろうとするからだ。親を喜ばせようとして、大人に褒められようとして、彼らはとことん心を砕く。
 幼い子どもをもつ親を対象にしたアンケートには、「どんな子どもに育ってほしいか」という質問がよくある。そこに「人に迷惑をかけない」という選択肢を見つけると、とても苛立ってしまう。他人に迷惑をかければ、結果的に親である自分が迷惑をこうむることになるから、というエゴイスティックな理由が潜むように思えるからだ。人に迷惑をかけずに生きるなんて、ほとんど不可能である。「私は誰にも迷惑をかけたことがない」と言う人がいたら、申しわけないが、かなり鈍感な人だと思う。
 「いい子」というのは、多くの場合、親や大人にとっての「いい子」である。そんなものになっても仕方ない。その子が感情を素直に表現したり、自分のしたいことを貫いたりすることの方がどれほど大切か。それが時に周りの子どもとの衝突を生んだり、大人をうんざりさせたりしても、大したことではない。自分を大事にできない人間は、人を大事にできない。誰にも迷惑をかけないように気を配るよりも、たとえ迷惑をかけてしまっても後でちゃんとフォローする方が現実的だ。
 親は往々にして、言葉以外のメッセージもたくさん発している。口では「あなたの好きなようにしていいのよ」と言っても、表情や口調が「でも、お母さんはね……」と反対のことを語っていては、子どもは自分の思うとおりに行動しにくい。この歌の作者は、2人の女の子の母親である。五七五七七に収まりきれないほどの真情があふれていて、胸が熱くなる。

☆小島ゆかり歌集『獅子座流星群』(砂子屋書房、1998年6月出版)
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2006年06月26日

親はあっても子は育つ

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              広坂 早苗


 親になったからといって人格者になれるわけではない。感情のままに幼い子をきつい口調で叱ったり、手が出てしまったりした時は誠に情けなくなる。子供をもたなければ、自分のことをそこそこ「いい人」だと錯覚したままでいられたかもしれないが、日々育児や雑事に追われ、思うとおりに物事が進まない状況に苛立つ中、自分の弱い部分、嫌な部分を見つめなければならなくなる。子供と過ごす時間の長い母親は特にそうだと思う。
 「子を打ちてこころ晴れゆく」というのは、かなり危ない状況だ。人間の持つ暗い部分を思わせる。作者は、その暗さを、茂った木の蔭である「木下闇(このしたやみ)」と表現した。欠点の多い私のような親に育てられても、おまえは伸び伸びと、すくすくと育ちなさい−−。「親はなくとも子は育つ」をもじったフレーズだが、読むほどに胸が苦しくなる。子供の数が少なくなった今、親の目は必要以上に子供に注がれる。親はつい口うるさくなってしまったり、自分の夢を託してしまったりするだろうし、子供はそこから逃れにくい。親も子も息苦しい。
 しかし、と私は思う。木下闇は夏の季語であり、美しい緑の葉が生い茂っていることを意味する。子供への愛情という葉が豊かであればあるほど、闇は深くなるのかもしれない。不恰好なほどにみっしりと葉を茂らせた木々は、美容院に行く暇もなく子育てに奔走している女の人のようだ。パーフェクトな親なんていない。だいじょうぶ、あなたは頑張っている。頑張りすぎないようにね。


☆広坂早苗歌集『夏暁』(砂子屋書房、2002年12月出版)
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2006年06月23日

保育所

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愛それは閉まる間際の保育所へ腕を広げて駆け出すこころ
              松村由利子


 延長保育をする保育所が増えている。それは働く親にとってありがたいことだ、もちろん。しかし、どれほど保育時間が延長されようと、延長された分ぎりぎりまで働いてしまう現実がある。早く迎えに行けばいいのに、自分の小さな満足感のために「もうちょっと、きりのいいところまで」と仕事したり、上司の目が気になって1分でも長く職場にいようとしたり…いま思えば実につまらないことをした。本当に大切なものは、そう多くはない。
 ほとんどの子供たちが帰った保育所はがらんとしていて、先生もわずかしか残っていない。子供は、最後の一人になったことに対して抗議を示そうと、抱きしめようとする両腕から身をよじって逃げようとする。朝は何ともなかった膝小僧に、絆創膏が貼ってある(ああ、「ばんこーそー」と言っていたあの頃!)。「ここ、どしたの?」。尋ねた途端に、わぁーと泣き出す。
 そんな日々を思い出すたびに、子供が保育園児だった頃が私の「華」だったなぁと思う。

☆『薄荷色の朝に』(短歌研究社)
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2006年06月22日

子供の歩幅

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子供らの歩幅に合わせて歩く道こんな時間があといくらある
                    前田 康子

 子育て中、特に手のかかる時期には、早く子供が大きくならないかと思う。しかし、子供は思いのほか早く育つ。抜け殻のようにいくつもいくつも服が小さくなり、いつの間にか手の届かないところへ行ってしまう。
 疲れたときや荷物の多いときに「抱っこ、抱っこ」とせがまれるのもたいへんだが、「ジブンであるく!」と宣言されるのも時としてしんどい。歩幅が小さいからだ。私にも2歳くらいの息子の歩調に合わせきれずに、「もぉ〜、早く歩いてよ〜〜」とうんざりしてしまった経験がある。けれども、その小さな一歩一歩の何となつかしいことか。あの一歩ずつが、いまやこんなに大きくなった子につながっているのだな、と思うと感慨深い。この歌の作者は2人の幼い子供のおかあさん。1人でも大変なのに、2人連れていたら歩幅も歩く方向も別々ということもあり得る。しかし、彼女の偉いのは、その大変さを一時期のことだと心得ているところだ。それどころか、子供との時間を限りなく慈しむ思いで、ちまちまと歩を進めている。
 駅のホームなどで、子供を引っつかむように横抱きにして駆けてゆく女性を見ることがある。親たちが子供とゆっくり歩く時間を持てる社会だったら、きっと少子化問題は起こらないと思う。

☆前田康子歌集『キンノエノコロ』(砂子屋書房、2002年10月出版)
posted by まつむらゆりこ at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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