間違ってステップを踏む惨めさが舞台の他にたまさかにある
中川佐和子
内田樹の『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)を読んでいたら、「失敗の効用」という文章でお稽古ごとについて書いてあり、いたく感じ入った。以下は引用である。
昔の男たちは「お稽古ごと」をよくした。
夏目漱石や高浜虚子は宝生流の謡を稽古していた。山縣有朋は井上通泰に短歌の指導を受けた。内田百閧ヘ宮城道雄に就いて箏を弾じた。そのほか明治大正の紳士たちは囲碁将棋から、漢詩俳諧、義太夫新内などなど、実にさまざまなお稽古ごとに励んだものである。
(中略)
なぜか。
私はその理由が少しわかりかけた気がする。
それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。
うーむ、なるほど。
実は、恥ずかしいのでブログにはずっと書いていないが、ここ数年フラメンコを習っている。先生は恐ろしく厳しい人で、びしびしと容赦ない言葉が飛んでくる。「ちゃんと体重かけて移動する!」「手と足がばらばら!」「お尻を突き出さない!」……はっきり言って、毎週のレッスンは惨めさの連続である。このトシになって、なんでここまで叱られなければならないのだろうと思うこともあるが、本当のことを言えば、「このトシ」にも関わらず20代の人と同じように厳しく指導してもらえるのは、僥倖といってよいのだろう。
内田氏は、観世流の仕舞と謡を習っている。この文章には、舞囃子の舞台に立つストレスに比べたら、講演や学会発表は「ピクニックみたいなもんだね」と書いてあって笑ってしまった。私も昨年11月の発表会では、そういう気持ちを味わった。しかも、間違えに間違え、終了後はとことん落ち込んだ。彼の言う通り、「それで命を取られることもないし、失職することもないし、減俸されることもないし、家族や友人の信頼や愛を失うこともない」。しかし、何の実害もないからといって、いい加減にはできない。お稽古ごとの不思議である。
内田氏は言う、「素人がお稽古することの目的は、その技芸そのものに上達することではない」「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことだと。
この歌の作者はダンス(たぶんバレエ)を習っていた人だ。舞台というのは、見るのもよいが、立つのもよいものである。「本務でないところ」をもち、師と仰ぐ人をもつことの豊かさも思う。「間違ってステップを踏む惨めさ」を知るのは、自分をよく知り、他の人の思いにいくらか想像力が働くことにつながるような気がする。子どものお稽古ごとも、学校や塾では教わることのできない有形無形のものを学ぶことなんだろうなあ、と思う。
☆中川佐和子歌集『海に向く椅子』(角川書店、1993年)