2010年02月12日

お稽古ごと

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  間違ってステップを踏む惨めさが舞台の他にたまさかにある
                       中川佐和子


 内田樹の『邪悪なものの鎮め方』(バジリコ)を読んでいたら、「失敗の効用」という文章でお稽古ごとについて書いてあり、いたく感じ入った。以下は引用である。

  昔の男たちは「お稽古ごと」をよくした。
  夏目漱石や高浜虚子は宝生流の謡を稽古していた。山縣有朋は井上通泰に短歌の指導を受けた。内田百閧ヘ宮城道雄に就いて箏を弾じた。そのほか明治大正の紳士たちは囲碁将棋から、漢詩俳諧、義太夫新内などなど、実にさまざまなお稽古ごとに励んだものである。
 (中略)
  なぜか。
  私はその理由が少しわかりかけた気がする。
  それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。

 うーむ、なるほど。
 実は、恥ずかしいのでブログにはずっと書いていないが、ここ数年フラメンコを習っている。先生は恐ろしく厳しい人で、びしびしと容赦ない言葉が飛んでくる。「ちゃんと体重かけて移動する!」「手と足がばらばら!」「お尻を突き出さない!」……はっきり言って、毎週のレッスンは惨めさの連続である。このトシになって、なんでここまで叱られなければならないのだろうと思うこともあるが、本当のことを言えば、「このトシ」にも関わらず20代の人と同じように厳しく指導してもらえるのは、僥倖といってよいのだろう。
 内田氏は、観世流の仕舞と謡を習っている。この文章には、舞囃子の舞台に立つストレスに比べたら、講演や学会発表は「ピクニックみたいなもんだね」と書いてあって笑ってしまった。私も昨年11月の発表会では、そういう気持ちを味わった。しかも、間違えに間違え、終了後はとことん落ち込んだ。彼の言う通り、「それで命を取られることもないし、失職することもないし、減俸されることもないし、家族や友人の信頼や愛を失うこともない」。しかし、何の実害もないからといって、いい加減にはできない。お稽古ごとの不思議である。
 内田氏は言う、「素人がお稽古することの目的は、その技芸そのものに上達することではない」「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことだと。
 この歌の作者はダンス(たぶんバレエ)を習っていた人だ。舞台というのは、見るのもよいが、立つのもよいものである。「本務でないところ」をもち、師と仰ぐ人をもつことの豊かさも思う。「間違ってステップを踏む惨めさ」を知るのは、自分をよく知り、他の人の思いにいくらか想像力が働くことにつながるような気がする。子どものお稽古ごとも、学校や塾では教わることのできない有形無形のものを学ぶことなんだろうなあ、と思う。

☆中川佐和子歌集『海に向く椅子』(角川書店、1993年)
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2008年07月11日

初心

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 習いたての異国のことばの明るさに三・三・二・二・二という拍子
                     松村由利子


 初心忘るべからず、ということばをつくづく思うこの頃である。なぜか。最近、フラメンコのレッスンが楽しくないからだ。始めたばかりの頃は、「習いたての異国のことば」に触れるように、何もかもが面白くて楽しかった。しかし、このところ進歩がなく、自分の運動神経の悪さにうんざりするばかりなので、レッスンに行っても悲しくなってしまう。
 いま教わっているのは、アレグリアスという明るくて軽快な踊りである。「1・2・3/4・5・6/7・8/9・10/11・12」という、まさにこの歌の「三・三・二・二・二という拍子」の曲に乗って踊る。私にはまだまだ難しいのだが、この頃ようやく、何となく踊りを覚えたかな、と思えるようになってきた。ところが、先日のレッスンで愕然とした。曲の途中で、先生に「そこ、あけないで!」と鋭く注意されたとき、1分間くらい意味がわからなかったのである。
 曲の途中に3拍子のリズムが連続するところがある。私は「タラ・タ、タラ・タ……」と取っていた。「タラ」はプランタ・タコンという、つま先で打った後同じ足のかかとで打つ部分、「タ」のところは、ゴルペという靴底全体で打つ部分である。先生は、「タ・タラ、タ・タラ……」と、3拍子の頭にアクセントが来るようにリズムを取れ、と言っていたのだ。
 12拍子という長いコンパスなので、中でどうリズムを取っても全体の辻褄が合えばよいような気がするが、それではダメなのだった。しかし、別に歌いながら踊っているわけでもないし、どうして私が「タ・タラ」でなく「タラ・タ」と取っているのかがわかったのだろう。先生はすごい。拍と拍の間のわずかな休止の違いを聞き分けて、私のリズムの取り方が違うことを指摘したのだ。
 ものを習う、ということの面白みはこんなところにある。自分が到達できない境地にいて、自分には見えないものが見える先生をもつこと。会社で「できる上司」をもつ喜びにも、似たところがあるかもしれない。初心を思い出し、来週もまた叱られに行こう。

☆歌集『鳥女』(本阿弥書店、2005年)
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2007年03月10日

落ちこぼれ

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  習いたての異国のことばの明るさに三・三・二・二・二という拍子

 フラメンコを習い始めて三年半たった。習い始めの頃のうきうきする気持ちが少々薄れてきた。自分で作ったこの歌を読み、「あ〜、この頃は楽しかったよねえ。今は、複雑な人称変化や語尾の活用に泣かされてるよ」と思ってしまった。
 初級クラスでアレグリアスという12拍子の曲を習っているのだが、難しくてついて行くのがやっと。いや、ついて行っていないと思う。落ちこぼれの子どもの悲しみがすごく分かる。
 私は運動が苦手な子どもだったけれど、落ちこぼれる感覚は味わわなかった。体育の時間は、100メートル走ってタイムを計ったらおしまい、バレーボールをして自分のレシーブミスで試合が終わったらそれでおしまい、というすっきりした内容だった。その時はみじめな気分になっても、次の時間まで引きずることはほとんどない。
 しかし、今フラメンコのレッスンで、私は初めて「あっ、今のところもう少しゆっくり教えてもらったら分かるのに」「あれ、みんな、どうやっているんだろ。何か自分だけ違うことしてるみたい。でも先生は何も言わないし、これでいいのかな……(後で、全然わかってない、と叱られる)」という繰り返し。前回やったことが、その次のレッスンでようやく「あ、こういうことか」とおぼろげに分かり始めるが、その時点ではもう皆どんどん次に教わったことをこなしているのである。
 足だけなら割とすぐ覚えられるのだが、手がつくともういけない。さらにスカートをさばくことが加わると、もう何が何だか……という状態になってしまう。ゆっくり丁寧に教わることができれば、自信と喜びをもって学校に通う子どもがもっと増えるのにな、なんて思う。
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2007年01月13日

よろける

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  そののちの静止に賭けてターンする遅れぬように崩れぬように
                     中川佐和子


 よろけるのである。フラメンコの練習中、体の向きをすばやく変えたり、くるりと回ったりすると、「静止」できずに「よろっ」としてしまう。どうしてこう体のバランスが悪いのか、ほとほとイヤになる。
 昨年11月に発表会が行われた。人生初めての舞台だった。直前の通し稽古で間違えたところも本番ではちゃんと踊れたし、小さなミスはいろいろあったが、まあまあの出来だったと思っていた。
 ところが!!
 先日、発表会の舞台を撮影したDVDで自分の踊りを見て、卒倒しそうになった。踊りのミスだとか形の美しさだとか言う前に、よろけているのである。こんなによろよろしているとは思わなかった。目を覆わんばかりのよろけ具合に、がっくりきてしまった。
 だいたい、フラメンコの魅力というのは、大地を踏みしめるところにある。上半身がいかに空に向かって伸びようが、なまめかしく複雑に動こうが、下半身はどっしりと安定している。そこがいいのに、私ときたら海中のワカメのように頼りなく、回転や素早い動きの後に必ず「よろっ」としているのであった。
 「そののちの静止」という表現の巧みさには、ぐっと惹きつけられる。理想的ターンの成功率の低いことは「賭けて」から窺え、作者にちょっと親近感を抱く。「遅れ」っぱなし、「崩れ」っぱなしの私であるが、今年は「そののちの静止」を目標に、練習に励もうと思う。


☆中川佐和子歌集『海に向く椅子』(1993年7月、角川書店刊)
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2006年11月26日

発表会

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  稽古した人が一番うまくなる会社にはなき秩序を愛す

 って、自分の歌だが、発表会を明日に控えた身にとっては非常に痛い。練習しても限界のある運動神経のなさを嘆きたくなってしまう。
 しかし、私よりも後にフラメンコを始めたMちゃん。この人はすごい。週に3回以上スタジオに通い、今回の発表会では冒頭のブレリア、2人だけでのタンギージョなど4つも踊るのである。たった2年しかやっていない彼女の努力と練習量は、同じ入門クラスで見ている私たちにも分かる。やっぱり稽古しないことには、何事も始まらないのである。
 まだまだ練習すべきだった。けれども、仕事もあったし、持ち時間のうちフラメンコに充てられる時間は全力投球したと思う。だから、本番では思いきり踊るしかない。
 セビジャーナスとファンダンゴでは、このMちゃんと一緒に踊る私である。ひゃー、どうして、そう色っぽく腰を振ることができるのか。スカートをぶわーっとめくり上げる度胸もいい。挑発的なところ、自我をむき出しにするところ、そんな踊りだからフラメンコに惹かれたはずなのに、全く学芸会みたいな踊りしかできていない自分が情けない。
 さっ、気持ちを入れ替えて、少しでも自分の思いを表現してみよう。
 
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2006年10月27日

踊る喜び

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 踊るといふ身体(からだ)のよろこび知らずして世を去らむこと時どき思ふ        花山多佳子

 この歌を読んだとき、「ああ、これは数年前の私だ」と思った。人が美しく楽しげに踊る様子を見て、寂しくなる気持ちはよく分かる。踊りというものは、少し手が伸ばせば届きそうなのだが、縁のない者にとってはやっぱり遠い世界に思われて尻込みしてしまう。
 フラメンコを始めたのは3年前。かっこいいなあとは思っていたが、ある晩飲んでいたお店で、今の先生と出会わなければ始めるには至らなかったかもしれない。第一印象は、何だかめちゃめちゃ元気で(よく飲む)チャーミングな人、であった。お店の人がこっそり「あの人、フラメンコの先生なんだよ」と教えてくれたとき、私の中で何かがぴぴっと動いた。
 勇気を出して話しかけてみた。「あのー、四十過ぎてフラメンコ始めるなんて無理でしょうか?」。先生はにこにこと(ビールを飲みながら)「始めるのに遅すぎるなんてことありません! 踊りは細く、長く!」と答えた。
 あのとき、先生と出会わなければ習い始める機会がつかめず、この歌を読んでも「あー、そうだよねえ。私も踊る喜びを知らないまま死んでゆくのよね」と悲しくなってしまったに違いない。
 初めてのレッスンのときの嬉しい気持ちは、今も忘れられない。踊るということが自分の日常に入ってきた喜び、それは本当に信じられない感激だった。最近、この喜びを忘れていたかもしれない。それも11月27日の発表会が近づいてきたからだ。まだ間違える。まだ体がよろける。
 さあ、あと1カ月。喜びを感じつつ、精一杯楽しんで踊りたいと思う。

☆花山多佳子歌集『木香薔薇』(砂子屋書房、2006年7月出版)
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2006年09月19日

指先

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 指先まで力を込めよ負荷をかけ負荷をかけ人は美しくなる

 発表会が近づき、先生の指導が週を追うごとに厳しくなってきた。
 先週の稽古中には、「あたしは意志のない手は嫌いなの!」と鋭い声が飛んだ。身がすくんだが、ちょっと嬉しかった。というのも、このところ停滞気味で、間違えずに踊ることを第一に、必死に他のメンバーに合わせて体を動かしていたので、「表現」というところに一歩近づいた叱咤はありがたかったのである。
 日本語で手足というときの「手」は腕全体を指すことが多いが、先生に言われた「手」は「マノ」と呼ばれ、手首から先の動きを指す。マノを除く腕の動きは「ブラソ」という。腕と足の動きをやっとのことで覚えても、最後に手を動かし始めると、全部がばらばらになってしまったりする。
 稽古中に初めて「指を張って! 力の抜けた手はきれいじゃないよ」と言われたのは、いつだっただろう。「こんなところにまで力を込めなければいけないのか」と驚いた。それ以来、フィギュアスケートを見ても、シンクロナイズドスイミングを見ても、「なるほどー。やっぱり手先がきれいだよぉ」と納得している。
 指先まで力を込めて踊るのは、常に凛と背筋を伸ばして生きることにつながるような気がする。気持ちや体が弛緩していては美しくない。つらいことや悲しいことがたくさんあっても、その負荷が人を美しくするのかもしれない。そんな思いを歌にした。
 先生の声がびしびし飛ぶ。「その手は、欲深く、こちらに呼び込むような手なんだよ!」。うわぁ、かっこいい。ぴんと張った指先に、いっそう力を込める。

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年09月14日

回る

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 いっぽんの軸を持たねば回れぬと言われぐらつき始める日常

 回るのが苦手である。フラメンコを始めるまでは、いろいろな踊りを目にしても「ふーん」とあまり熱意なく眺めていたのだが、今やちょっとしたCMの踊りのシーンを見ても、回転が気になる。「おっ、顔の切れがいいねえ」「やっぱ、下半身が安定してるんだ」などと一人で大興奮。くるりと一回転することがどれほど難しいかというのを身にしみて知っただけでも、世界が広がった気がする。
 回る、というのは、片足で立って身体を回転させることである。上半身はいろいろな形があり得るが、体の中心を通る軸は常に一本で安定していなければならない。そのためには、背筋や大腿筋がきちんと支えたり引っ張ったりする力を備えていなければダメなのだ。そして、体は回転し始めても顔は正面を見続け、最後の一瞬でぴっと顔を切らないといけない。うーむ、理屈はわかっているのだが……。
 ゆうべ、「雨に唄えば」のDVDを見ていて、改めてジーン・ケリーの踊りの素晴らしさを堪能した。上体を斜めにして連続回転するシーンで「ああっ、これってまるっきりケブラーダ!!」、雨の中、傘をさして踊るシーンで「うわ、軸が全然ぶれてないわ、さすが」と、夜中に騒がしいこと、この上ないのであった。
 11月の発表会まで、あと2カ月あまり(どうせ見るならフラメンコのDVDの方がいいんじゃ……ということは言わないでほしい)。衣裳は仮縫いが済み、昨日は早々と髪飾りも渡されてしまった。舞台の上でよろけずに回転できるのかどうか、すべては練習にかかっているのだろう。ああ、恐ろしい。

 回転(ブエルタ)は一瞬ならず最後まで顔は正面をひたと見据えよ

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年09月07日

12拍子

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踏み鳴らす足も手拍子(パルマ)も楽器なり十二拍子は血を沸き立たす

 フラメンコには、さまざまな曲種がある。それぞれの基本リズムを「コンパス」というのだが、ブレリア、アレグリアス、ソレアなど、12拍で1コンパスとなっているものが多い。3・3・2・2・2というリズムを習ったときは、実にわくわくした。何だか変拍子とシンコペーションが一緒になったようで、体の奥深いところが動き出すような感じがした。
 小学生のころの私は、ピアノを習っていたので楽譜は読めたが、音楽の喜びを知らなかった。「4分の4」も「2分の2」も大して変わらないじゃないか、「4分の3」だって最初から順に音符を演奏していくんだから、どこで区切ろうとおんなじようなものなのに、と恐ろしいことを思ったのを覚えている。
 本当にリズムというものを楽しくて美しいものだと感じたのは、高校時代にブラスバンドでフルートを吹いていたころだっただろう。それぞれのパートごとに違うリズムを刻むドビュッシーの楽曲などを演奏していると、身震いするほど嬉しかった。ストラヴィンスキーやラヴェルの変拍子は、いつ聴いてもぞくぞくする。
 というわけで、生来リズム感の悪い私であるから、踊りもなかなか上達しない。手足を楽器のように使うのは本当に難しいが、音楽に合わせて体を動かす楽しさは格別である。踊りとは体で音楽を奏でることであり、リズムとは音楽の息づかいのようなものなんだなあ、と今ごろになってやっと分かった。

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年08月03日

舞台に立つ

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 間違ってステップを踏む惨めさが舞台の他にたまさかにある
              中川佐和子


 踊りとか芝居の舞台にはとんと縁のない人生である。舞台そのものには、ずっと憧れてきた。小学校時代の学芸会は、担任の先生がいろいろ考慮して子どもたちをしかるべき演目に振り分けるという仕組みになっていた。私は演劇の班に入りたかったのに、いつも音楽の班に入れられ、人生とはままならぬものだと学んだ。しかも、音楽の班とて舞台には上がるはずなのに、ピアノの係になった私は舞台の下で一人さみしく演奏していたのだ。中学校に演劇部はなかったので、高校に入学して演劇部に入るぞぉ、と張り切っていたところ、吹奏楽部の組織的な勧誘に引っかかり、3年間笛吹き女となって過ごす羽目になってしまった。これはこれで全国大会まで行くくらいのクラブだったから舞台には何度も立つことになったが、総勢45人くらいで上がるのだからそう大したことではない。
 それから四半世紀。もう舞台とは縁のないまま一生を終わるのだろうと思っていた私だが、今秋初めてフラメンコ教室の発表会に出ることになった。衣裳を着たり、舞台メイクをしたり、というのも信じられないが、何よりも、本当に舞台に立つということが恐ろしい。
 この歌の作者は、バレエを習っていた人だ。何度も舞台に立ったことがあるようで、「間違ってステップを踏む」経験もしたらしい。そういう「惨めさ」を舞台以外の場でも味わうことがあるというのが、意外性のある面白い表現となっている。
 しかし! 「舞台の他」でいくらでも惨めさを味わっていいから、舞台の上では間違いたくないと強く思う私である。

☆中川佐和子歌集『海に向く椅子』(角川書店、1993年7月出版)
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2006年07月19日

重心と足の指

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 重心を瞬時に移す難しさ足指がっと開きて踊る
              松村由利子


 フィットネスクラブでインストラクターの女性を取材したとき、一番驚いたのは、彼女の足の指が信じられないほど広がることだった。
 重心やバランスについて話を聞いていたときだっただろうか。
 「わたし、足で『パー』ができるのよ」
 そう言って彼女は、ぐわっという感じで足指を開いてみせた。真っ赤なペディキュアのほどこされた足の指は見事に広がり、獲物をつかむ猛禽類の脚のような迫力があった。
 フラメンコを習い始めて痛感したのは、自分のバランス感覚が恐ろしく悪いことである。重心がぐらつくと、きちんと回れない。足を左右に踏みかえる動作も、重心がちゃんと移せていないと、何の意味もないのだった。自分の下手さ加減がほとほと嫌になる。
 ある時、はたと気づいた。「足の指だ!」
 私の足は、長年パンプスに痛めつけられ、親指以外の4本の指はほとんど一緒にしか動かない。これでは大地をつかむことなんてできやしない。フィットネス・インストラクターの彼女のような「パー」ができるようにならなければ、踊りはうまくならない。そう言えば、彼女はもともとクラシックバレエやジャズダンスなど踊っていた人ではなかったか。
 そういうわけで、入浴時には、リハビリのごとく足指を1本1本動かすように心がけている。動かそうとする1本を除く指を両手で押さえ、何とか1本だけ曲げたり伸ばしたりするのだが、ほんの少しだけ指が広がるようになってきた(気がする)。

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2006年07月07日

大きく見せる

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 敵に挑む小動物も踊り手も自分の姿を大きく見せる 

日本では概して小さなものが好まれる。ひな祭りの道具類のような愛らしい細工物がめでられ、小柄で華奢な女性が魅力的とされてきた。
 私は子どものころからなりが大きく、思春期にさしかかると男の子よりも身長が高いのが嫌で背を丸めて歩いていた。自分よりも背の低い男の子から好きだと告白されても、「私をからかっているんじゃ……」と素直に受けとめられなかった。靴を買いに行くと大きなサイズなのが恥ずかしくて、少しでも小さな靴に足を押し込もうとした。大女の悲哀である。
 だから、フラメンコを習い始めて、先生から「それじゃ体が小さく見えちゃうよ。もっと胸を張って大きく見せて」と指導されたときは驚いた。私の先生は、たいへんにスレンダーな美しい女性だが、生徒たちが「先生、ほっそーい!」と羨ましがると「なに言ってるの。あたし、もっと丸くなりたいのよ」と言う。
 フラメンコは挑発の踊りである。上体をひねり、両手を腰に当てた格好で前進するとき、前の方のひじは常に体の先端になければならない。スカートを左右に広げたり、腕を高く上げたりする動作は、自分を大きく見せるためのパフォーマンスだ。スペイン女性のどっしりした胴回りは、誠にフラメンコを踊るにふさわしい。
 あるとき、苛酷な自然を生き抜く動物の生態を紹介するテレビ番組を見ていて、ふと思った。「そうか、動物もフラメンコの踊り手も同じだな」
 もともとフラメンコには、異性の気を惹くためのコケティッシュな挑発が大きな要素として含まれているだろう。しかし私には、好きな男というよりは、厳しい現実社会に立ち向かっていくための踊りのような感じがするのだ。

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年07月03日

スカート

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 稽古場の壁は花咲く賑やかさ赤や黄色のファルダ掛けられ

 「ファルダ」はスペイン語でスカートのこと。フラメンコのレッスンが行われるスタジオには、壁に色とりどりのスカートが掛かっていて、見ているだけで楽しくなる。
 そもそも、フラメンコを始めるまであまりスカートを穿くことがなかった。仕事のときはパンツスーツが多かった。駆け出し記者のころは、ジーンズ一辺倒だった。写真を撮ったり車を運転したりするときに動きやすいというのが一番の理由だが、意地のようにスカートを穿かなかった時期もある。
 内勤記者だった20代前半のころ、スカートもジーンズも同じように愛用していた。まだ鉛の活字を使っていた職場だったからインキで服が汚れることもあり、ジーンズで仕事をする方が多かった。ある時、上司から「おまえ、きょう生理やろ」と言われ、仰天した。その日、私はスカートを穿いていた。「セクシュアル・ハラスメント」という言葉もまだない80年代の話である。自分がどんな顔をしたか分からないが、何も言えなかったのは覚えている。
 以来、その職場にスカートを穿いていくことは一度もなかった。憎むべき人物の代わりに、女であることの象徴のようなひらひらのスカートを憎んだ。悔しかった。
 フラメンコを始めて、何が嬉しかったかというと、ひだのたくさん付いた長いスカートを穿けることである。踊ると裾が揺れるのが嬉しい。裾を手で持ち上げたり、素早く左右にさばいたりするのが嬉しい。もう何もかもが楽しい。
 あんなに小さなひと言にずっと呪縛されていたことを思うと、レイプや深刻なセクハラを受けて傷ついた女性たちが、どれほど自分が女であることを呪っただろうかと胸が締めつけられる。悪いのはスカートではない。

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年06月30日

サパテアード

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 ジプシーの心にこごれる思いならんフラメンコの舞い激しき地団駄
                伊良部 喜代子


 「ああ、フラメンコをよく知らない人には、こんなふうに見えるんだ」。そう面白く思った。「地団駄」という表現である。
 フラメンコの「サパテアード」(靴底でリズムを打ち出す技巧)には、いろいろなものがあって、足の裏全体で打つ「ゴルペ」、かかとで打つ「タコン」、足裏の前半分で打つ「プランタ」などを組み合わせて多様なリズムを表現する。「地団駄」のような激しいものもあれば素早く軽やかなものもあり、自分の足が楽器になったような面白さを味わえる。複雑なサパテアードを覚えるにはコツがある。先生が踊るのを見て覚えようとするよりも、音に集中して耳で覚える方が早くて正確なのだ。初めはそれが分からなくて苦労した。
 そう言えば、フラメンコを習い始めて最初に戸惑ったのは、サパテアードで大きな音を出すことだった。それまでの人生では何となく「お行儀が悪い」とされていたことだから、「いいのかしら」とおずおずと床を踏んだ覚えがある。
 靴音が出ないのはきちんと体重を乗せていないからだと、最近ようやく分かってきた。振りに自信がなくて手足の動きだけを何となく真似ているときは、体重移動ができていない。「全然踏めてないよ!」と先生から叱声が飛ぶ。私はふだんの生活で、自信のない時や疲れている時は知らず知らずのうちに声が小さくなる。フラメンコでも同じだな、と思う。自分を肯定し、人生を肯定して踊るとき、靴は明るく大きな音で響く。

☆伊良部喜代子歌集『海神祭』(ながらみ書房、2004年11月出版)
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2006年06月27日

何を求めて踊る?

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フラメンコ人口多きこの国に何を求めて女ら踊る
                松村由利子


 日本はスペインに次いでフラメンコ人口が多いという。一説では、教室に通って踊りを習っている人が10万人に上るとか。驚くべき数字である。
 その数字があまりに印象的だったので、何となく日本女性ばかりがフラメンコを習っているような気になっていたのだが、先日スペインのフラメンコ学校に行って、世界各国から女性たちが集まってきているのを目の当たりにした。
 アンダルシア地方の観光都市セビージャは、セビジャーナスという踊りの生まれた土地である。ここのフラメンコ学校に5日間だけ通ってみた。学校では、アメリカ、フランス、韓国、ベネズエラ、レバノン……さまざまな国の女性たちと出会った。自分のことは棚に上げ、「どうして、この人たちはフラメンコを習おうと思ったのだろう」と不思議がってしまった。
 学生時代からフラメンコを踊り続けている会社員の友人は、2つの理由でフラメンコを選んだと話す。第一に、必ずしも男性パートナーを必要としないこと。第二に、年齢を重ねても続けられる踊りであること。「スレンダーな若い女性だけが踊れる踊りじゃない。ちょっと恰幅のいいおばちゃんが踊っていても、それはそれでカッコいいのよ!」と彼女は言う。その2つの理由にいたく共感した私は、フラメンコを始めたというわけだ。
 私の通う教室の人たちは、みな仕事を持っている。忙しく働く女たちが時間とお金をやり繰りしてフラメンコを習うのは、もちろん踊り自体に魅力を感じているからだが、もしかすると「自分一人でやれる」、そして「年齢差別がない」という、日本の職場ではなかなか実現しない2つのことがかなえられるからかもしれない。

 稽古した人が一番うまくなる会社にはなき秩序を愛す

☆松村由利子歌集『鳥女』
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2006年06月23日

カスタネット

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手のひらに溢るる水の音を聞けカスタネットの内なる大河
                山吹明日香


 カスタネットという楽器は、案外知られていない。小学校時代、赤と青のカスタネットを片手にはめて「ウン、タッ、ウン、タッ」と叩いた記憶のある人は多いだろうが、それ以外の場で目にすることはあまりない。オーケストラでもカスタネットの出番は、ほとんど見ない。
 日常的にカスタネットの音を聞き、自分でも打ち鳴らすという人は、ほぼフラメンコを踊ると考えてよいのではないか。そして、フラメンコを知る人でないと、この歌の小気味よさというか「溢るる水の音」の感じは分からないと思う。利き手の指をピアノを弾くように素早く動かすことで流れ出る連打音は、まさに水流のようだ。
 作者が踊る人かどうかこの歌からだけでは分からないが、歌集の前後の歌を見ると、フラメンコの舞台を見たときに作ったようだ。汲めども尽きぬ大河のように、両手からカスタネットの音が溢れ出る様子に感動したのだろう。非常に意外性があり美しい表現だ。
 けれども、フラメンコを習うすべての人がカスタネットをこんなふうに打てるかというと、それは疑問である。「踊るのは好きなんだけど、カスタネットは嫌い」というフラメンコ友達は少なくない。私は、と言えば、カスタネットが好きでたまらないのだが、この歌のような連打ができるようになりたくて5月に猛練習した結果、右ひじを痛めてしまった。マグカップを持ち上げるだけで、まだひじがずきんとする。大河は遠い。

☆山吹明日香歌集『夜音の遠音』(北冬舎、2006年5月出版)
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2006年06月22日

ケブラーダ

身を反らし斜めに回転する刹那世界がらりと裏返るべし
                 松村由利子


 「ケブラーダ」は、普通の回転(ブエルタ)よりも上半身を反らし、顎を天井に向けて回転します。難しい!
 フラメンコを習い始めて2年余りですが、ブエルタそのものが苦手です。両足を床に押し付けるように回らなければならないのに、足が浮いてしまいます。太腿の内側の筋肉をきちんと使っていないのでしょう(頭ではわかっているのに!)。
 なので、初心者の私がケブラーダの歌を作るなんて笑止千万なのですが、そんなことを言っていたらフラメンコの歌は作れませんから、それはそれ、あたかも上手な踊り手のような歌を作っています。
posted by まつむらゆりこ at 17:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 情熱のフラメンコ短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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