
フリーランスの名刺を持ちて取材する他流試合のごとき興奮
「仕事は断るな」と言われる。特にフリーランスの先輩からは、「フリーの人間にとっては鉄則」とアドバイスされる。
実は会社員時代、特に中間管理職だったころは、部下や同僚に頼むのが苦手で、「自分でやった方が早い」とばかりに抱え込むことが多かった。そして、一人で忙しくなって一人できりきりと不機嫌になって――という具合に、全くダメな上司の典型だった。
このときの苦い経験があるので、フリーになってからは極力マイペースを守ろうと思った。手に余る仕事は引き受けない。できないことは、できないと断る……しかし、待っていても自分のやりたい仕事は来ないし、選り好みなどできないのがフリーという身分なのであった。
「仕事は断るな」というのは、誰か自分に仕事を依頼してきた人がいる、ということだ。一応は私を見込んでくれた、あるいは頼ってくれたという、ありがたい状況なのである。よほどの事情がなければ、受けて立たなくてはダメだ。何より、限界と思う以上の仕事をすることは、自分を大きくするチャンスである。「そういう仕事はやったことがない」「それは苦手な分野だから」など、言いわけはいくらでもできる。でも、そこを何とか乗り越えれば、新たな地平が広がる。
私の場合、人前で話すのがとても苦手なのだが、授業や講演の仕事を引き受けているうちに少しずつ楽しくなってきた。そして、原稿を書いたり短歌をつくったりするときには気づかなかった言葉の不思議さについて考えるようにもなった。話す内容を前もって準備するのは最低限のことなのだが、用意した言葉だけでは人を引き付けることができない。話しながら教室や会場の雰囲気、自分の感情の流れを注意深くつかみ、その場で心に浮かんだことを話すと、聞いている人の気持ちがぐんと集中するということを何度か経験した。
言葉は生きている。特に話し言葉は、語り手の生き生きとした感情や表情が大切だ。周到に作られた講義ノートだけでは人に伝わらないのだという発見は、短歌を作るうえでも大きなヒントになる。豊かな感情の発露がなければ、どんな一首も人に届かないのだと改めて思う。
仕事というものは、対価だけで測れるものではない。自分に負荷をかけることで、対価以上のものが必ず返ってくる。組織の中にいるとき、このことを理解していたら、後輩たちにうまく仕事を配分できたかもしれないなぁ、と残念に思い返したりもするのである。
☆松村由利子歌集『大女伝説』(2010年5月、短歌研究社)