2010年10月15日

仕事は断るな

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  フリーランスの名刺を持ちて取材する他流試合のごとき興奮

 「仕事は断るな」と言われる。特にフリーランスの先輩からは、「フリーの人間にとっては鉄則」とアドバイスされる。
 実は会社員時代、特に中間管理職だったころは、部下や同僚に頼むのが苦手で、「自分でやった方が早い」とばかりに抱え込むことが多かった。そして、一人で忙しくなって一人できりきりと不機嫌になって――という具合に、全くダメな上司の典型だった。
 このときの苦い経験があるので、フリーになってからは極力マイペースを守ろうと思った。手に余る仕事は引き受けない。できないことは、できないと断る……しかし、待っていても自分のやりたい仕事は来ないし、選り好みなどできないのがフリーという身分なのであった。
 「仕事は断るな」というのは、誰か自分に仕事を依頼してきた人がいる、ということだ。一応は私を見込んでくれた、あるいは頼ってくれたという、ありがたい状況なのである。よほどの事情がなければ、受けて立たなくてはダメだ。何より、限界と思う以上の仕事をすることは、自分を大きくするチャンスである。「そういう仕事はやったことがない」「それは苦手な分野だから」など、言いわけはいくらでもできる。でも、そこを何とか乗り越えれば、新たな地平が広がる。
 私の場合、人前で話すのがとても苦手なのだが、授業や講演の仕事を引き受けているうちに少しずつ楽しくなってきた。そして、原稿を書いたり短歌をつくったりするときには気づかなかった言葉の不思議さについて考えるようにもなった。話す内容を前もって準備するのは最低限のことなのだが、用意した言葉だけでは人を引き付けることができない。話しながら教室や会場の雰囲気、自分の感情の流れを注意深くつかみ、その場で心に浮かんだことを話すと、聞いている人の気持ちがぐんと集中するということを何度か経験した。
 言葉は生きている。特に話し言葉は、語り手の生き生きとした感情や表情が大切だ。周到に作られた講義ノートだけでは人に伝わらないのだという発見は、短歌を作るうえでも大きなヒントになる。豊かな感情の発露がなければ、どんな一首も人に届かないのだと改めて思う。
 仕事というものは、対価だけで測れるものではない。自分に負荷をかけることで、対価以上のものが必ず返ってくる。組織の中にいるとき、このことを理解していたら、後輩たちにうまく仕事を配分できたかもしれないなぁ、と残念に思い返したりもするのである。

☆松村由利子歌集『大女伝説』(2010年5月、短歌研究社)
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2009年11月06日

長時間保育

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 保育園は寂しかったかあの頃は粘土遊びをせぬ日のなくて
                      松村由利子


 私の子どもは、保育園に通っていた頃、粘土で遊ぶのがひどく好きだった。小さな指でトリケラトプスなどの恐竜を精妙に作り、おとなたちを驚かせた。遊びに熱中するあまり、園児たち全員が日課の散歩に出かけるときも、自分はここで遊んでいると言い張り、一人の先生が彼のためだけに居残ったこともあったそうだ。
 あの熱中を思うと、今もすまない気持ちでいっぱいになる。粘土遊びが好きだったことは間違いないが、幼児らしからぬ執着に、彼の抱く深い寂しさが投影されていたような気がしてならない。この歌は「寂しかったか」なんて当たり前すぎることを訊ねていて全くなっていないのだが、私の精一杯の謝罪のことばである。
 今週発売の「週刊朝日」(11月13日号)で、小倉千加子さんが連載コラム「お代は見てのお帰りに」に私の歌を引用してくださった。「保育所の13時間保育は本当に必要か」と題された文章で、長時間保育は「企業に配慮した、雇用のための児童福祉政策」であり、こどもたちは疲労困憊している、と鋭く批判した内容だ。「子どもの権利条約」には、子どもたちが「家庭という『私的空間』でくつろいで過ごす必要性と権利」がちゃんと保障されているのだ、と小倉さんは指摘する。
 このコラムの最後に、「愛それは閉まる間際の保育所へ腕を広げて駆け出すこころ」が置かれていて、私は嬉しいような泣きたいような気持ちになった。小倉さんが書いた「お友だちに次々に親のお迎えが来て自分が最後の一人になると、どんなこどもも強がって寂しくないふりをする」という、小さな意地っぱりさんこそ、私の息子だった。
 長時間保育は、親の長時間労働を意味する。保育行政の充実は大切なことだが、雇用を巡るさまざまな制度の充実や働き方の改善が行われなければ、労働強化につながってしまう。また、それだけでなく、小さな人たちに過重な負担を与え、長きにわたってその子と家庭をじわじわと痛めつけることになる。そのことが国の将来に与える影響は決して小さくないと思う。豊かな時間を親と過ごした子どもは、自分を大切にする心、人への信頼感を持って人生に向かい合える。それは決して目に見えるものではないけれど、生きてゆくうえで最も基本的で大切な装備ではないかと、胸が詰まるように感じつつ考える。

☆『鳥女』(2005年11月、本阿弥書店)
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2009年10月23日

新聞

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  報道がテレビに移る過渡期なる四半世紀を新聞にあり
                      島田 修二

 なるほど…と深々とうなずいてしまう。作者は新聞記者だった人である。1953年に読売新聞社に入り、浦和支局、東京本社の整理部、文化部などを経験した。26年間務めた後、50歳で退社した。
 私が新聞記者になったのは1984年だから、ほんの少し島田修二の記者時代と重なっていたのだなあと感慨深く思う。そのときは内勤の校閲専門記者だったが、86年から取材記者になった。合わせて22年間の記者生活なので「四半世紀」には少し足りないのだが、気持ちとしては「報道がネットに移る過渡期なる四半世紀を新聞にあり」という感じである。
 島田が現役の記者だった頃、新聞記者は花形の職業だった。私も大先輩たちから、いろいろな武勇伝や、予算が多かったころの贅沢な取材について聞かされたものだ。この歌は、そういう黄金時代を知る作者が、速報性を誇るテレビに対して、新聞が懸命にメディアとしての優位を保とうとする状況で詠んだものであろう。自分の活躍した時期は、思い返せば「過渡期」だったのだ、とやがて訪れる新聞の凋落を見据えている。
 私が新聞社に入ったころ、すでに新聞はテレビに圧倒されていた。しかし、記録性、信頼性の高さはそれほど揺らいでおらず、新聞がなくなるなんていうことは考えもしなかった。ところが、コンピュータ編集が導入され、記者がワープロ、そしてパソコンで原稿を書くようになり、あれよあれよという間にインターネットが新聞社のみならず人々の暮らしに入り込んだ。
 それは本当に恐ろしいほどの速さであり、考えられない事態がいろいろ起きた。若い記者に無邪気な顔で「検索エンジンがなかったころは、一体どうやって取材してたんですかぁ?」と訊ねられたり、初めて会った取材相手から「松村さんはこんな記事を書いてますよね。ネットで読みました」なんて言われたり、といったことは、今は珍しくないのだろうが、5、6年前には仰天したものだ。
 遠からず紙の新聞はなくなるのではないかと思う。しかし、ニュース価値を判断して編集された紙面や一覧性は、ネットの記事には今のところない。「報道がテレビに移る過渡期」から四半世紀。これから「報道」がどうなってゆくのか、新聞社を離れた今も気になって仕方がない。

☆島田修二歌集『渚の日日』(1983年、花神社)
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2009年10月16日

普通

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  テキストの向こうにいつもすけている普通の女という仮想敵
                      小川佳世子

 「仮想敵」とは、また穏やかではない。しかし、気持ちはわかる。
 「普通はもう結婚してもいいトシじゃないの?」「普通だったら、夫と子どもの2人くらいいる頃だよね〜」……ええい! 普通とは一体どこの、誰みたいな女なのだ。
 先日、『国語教科書の中の「日本」』(石原千秋著、ちくま新書)を読んでいて、のけぞってしまった。小学六年生の教科書に、重松清の『カレーライス』という作品が掲載されたというくだりで、著者は「どうやら物語の少年は一人っ子のようだし、働く母親の家庭という設定も画期的とさえ言えるのではないだろうか。これまでの教材は、両親に子供二人という「標準家庭」を前提としたものばかりだったからである」と称賛するのだ。「はぁ?」という感じである。
 母親の留守に「ぼく」が父親といっしょにカレーを作るという、その話について、著者はなおも「小学国語教科書にこういう現代物を採録するのにはそれなりの勇気が要ることだろうことは想像できる。さまざまな家庭があって、その違いに触れてしまうのは小学生にはまだきついという事情もある。その意味で、専業主婦率が五割を切ったいま、共働き家庭の物語で正解だった」と高く評価している。
 この歌の「テキスト」は、たぶんさまざまな文書や作品を指しているのだが、図らずも実際の小学校のテキストの実態を知って驚いてしまった。教科書には「普通のおかあさん」が、「いつもすけている」どころか、恐ろしくはっきりと打ち出されているのだ。『カレーライス』の内容くらいで感心されているようでは、小学校の教科書に単親家庭が登場するのは、まだまだ先のことに思える。
 いろいろな家庭があって、けっして「普通」の家庭、「普通」の子なんていうものはないのだということを知るのは、子どもにとって大事なことだと思うのだけれど。「あなたはあなた。たった一人の存在」ということと、「家族の在り方もいろいろ」というのは、あまり隔たっていないと思う。

☆小川佳世子歌集『水が見ていた』(2007年3月、ながらみ書房)
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2009年10月02日

働く

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  ぼろぼろになるまで人は働くと職を変はりてのちまたおもふ
                      永井 陽子

 働くということは、本当は喜びであるはずなのに、時に身も心も傾けすぎて疲弊してしまう。
 先日読んだ『なぜ女は昇進を拒むのか』(スーザン・ピンカー著、早川書房)が、とても面白かった。男女の脳が違うため思考のプロセスや感情表現が異なるということは知っていたが、この本はその結果それぞれの性がどういう職業選択をし、どんなライフスタイルを求めているかを丁寧に見てゆく。分厚い本であるが、「働く」というテーマを中心に展開されるので、引き込まれて読み進んだ。調査や統計に基づくデータに、著者のインタビューによる個々のケースを交えて考察しており、説得力がある。
 私が最も興味深く思ったのは、男女では仕事に求めるものが違うということだ。「他人との競争に打ち勝ち、実績をあげて高収入を得る」という、男性にとっての「成功=喜び」は、女性にとって必ずしも「成功」を意味しない。高学歴で優秀な女性たちが、収入のそれほど多くない教育分野や非営利団体で働く選択をする割合は、男性に比べて非常に高い。それは、女性が収入よりも仕事の意義を重視し、他人のために役立ちたいと考える傾向が強いからだという。また、共感能力の高い女性は家族への思いが深く、家族は二の次という仕事漬けの日々に喜びを感じられない。高収入を得て周囲に成功者とみなされている専門職の女性が、悩んだ末に長時間労働を強いられない職業、あるいは自分の価値観により合致する職業を選びなおすケースの多いことには驚かされる。
 私の周囲にも、長時間会社に拘束されて体をこわしたり、心を病んでしまったりした人がいる。「ぼろぼろになるまで」なんて働いてはいけない。
 この歌の作者は、職を変わってもやっぱり頑張りすぎてしまう自分を省みたのだろうか。そうも読めるが、私は周囲の人、特に男性を見ていて彼女が抱いた感慨のように思った。作者は「人間はほんにしみじみやさしくてやさしすぎたる者は死にゆく」という歌も作っている。やさしかったこの歌人は「自分も含めて、みんな働きすぎではないかしら」と心を痛めていたように思えてならない。
 男も女も楽しく働ける社会。本当に難しい課題だと思う。

☆永井陽子歌集『小さなヴァイオリンが欲しくて』(2000年10月、砂子屋書房)
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2009年04月17日

春キャベツ

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  家事はシャドウ・ワークなれどもやはらかな春キャベツ切る
  この感触は               豊島ゆきこ


 誰からも評価されないシャドウ・ワークだけれど、やわらかな春のキャベツをさくさく切る、この快感って、わたし好きだなあ……。春キャベツのように瑞々しい、素直な歌である。
 ほんのちょっぴり、「シャドウ・ワーク」をする自分を卑下しているような気持ちが「なれども」に感じられるが、全体としてはキャベツを刻む幸福感が前面に出ている。
 手仕事の快というものを思う。ことことと煮物を火にかけている時間の豊かさ、毛糸をひと目ひと目編んでゆく単調な気持ちよさ、きびきびと雑巾がけをする爽快さ−−。
 「シャドウ・ワーク」というのは、古い経済学の考えで影に追いやられていた仕事、というくらいの捉え方でよいのかもしれない。報酬が支払われないからといって、それが何だろう。日々の大切な時間をお金に換算する方が、貧しいことである。子育ても家事も本当のところ、人まかせにはできない楽しく心豊かなことだと思う。
 ところで、キャベツを刻むシーンが印象的な小説といえば、乃南アサの『幸福な食卓』である(瀬尾まいこじゃありませんよ!)。これは彼女のデビュー作で、とても怖い心理サスペンスだ。キャベツが出てくるのは最後のクライマックスなのだが、キャベツを刻む快感と相まって怖さが倍増、という効果を狙ったのかもしれない。
 この歌の作者は、キャベツを刻む快感を本当に愛していて、歌集にはこんな歌もある。

  丸ごとのキャベツざくつと切るときにしぶき立つ霧明快に生きむ

☆豊島ゆきこ歌集『りんご療法』(砂子屋書房、2009年2月)

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2009年03月13日

叱責

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  叱責をハラスメントと言ひつのる心得ちがひ もう言はないよ
                       真中 朋久


 管理職になって一番むずかしいのは、部下を叱ることかもしれない。
 本当のところ、誰も「叱責」なんてしたくない。いつもにこにこして、皆に好かれる上司でありたい。けれども、親が子どもをかわいいと思うからこそ叱るように、上に立つ者も本人の今後、部署の全体状況を考えて叱るのである。
 それなのに、この作者の部下は「やだ! それってパワハラですよ、もうっっ」なんて軽く受け流したようだ。「言ひつのる」には、やや執拗な繰り返しを感じさせるニュアンスがある。本人のためを思って叱ったことを、そんなふうに言われては立つ瀬がない。作者は深く嘆息する思いで「もう言はないよ」とひそかに決心する。
 この歌では部下の性別はわからないが、何となく女性のような気がして私は落ち着かない。決めつけてはよくないが、作者が男性であることを考えると、同性の部下が「ハラスメント」なんてことを言う場面は想像しにくい。ここでは、若い女性ならではの甘え、媚びがやんわりと責められているように思う。叱られた本人からすれば、照れ隠しという面もあったかもしれないが、職場は常に真剣勝負である。
 私が管理職に就いていたのはとても短い間だったが、今にして思えば多くを学んだ貴重な時期だった。あれもこれも注意したいけれど、やっとの思いでひと言だけ伝える、ということも多かった。だから、この歌の作者が勇を鼓して叱責したのに「ハラスメント」と言われてしまった悲しみを、ひしひしと感じるのである。
 フリーランスになった今は、誰も叱責してくれない。叱られているうちが「華」なのだ。上司に「もう言はないよ」なんて思わせてはいけない。

☆真中朋久歌集『重力』(青磁社、2009年2月)

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2008年07月25日

夫婦別姓

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  「<大田美和>が好きなんです」とやわらかく言わねばならぬ夫
  婦別姓                     大田 美和


 人間はかなり幼いころから、メディアや周囲の人々の言動に大きく影響される。久しぶりに若桑みどり著『お姫様とジェンダー』(ちくま新書)を再読していて、そのことをつくづく思った。若桑さんの熱い思いがあふれたこの本は、女性たちがいかに白雪姫やシンデレラといったプリンセス・ストーリーに影響され、いわゆる「女らしさ」に呪縛されているかを検証し、その思い込みからの自由を説いたものである。
 私はお姫さまにはそれほど魅了されなかったが、かと言って小さいころからラディカルだったわけではない。それは、母の証言で明らかである。幼稚園児だった私はある日突然、「わたしは、しょうらいアタサキ・ユリコになる!」と宣言したそうだ。本人は全く覚えていないのだが、5歳にして私は、女は結婚するものであり、結婚したら相手の男の姓に変わるものだ、ということを自明と理解していたらしい。当時の幼稚園に「赤崎」「畑崎」といった「アタサキ」に似た姓の子どもはいなかったため、母はそういう名の男が現れはしないかとずっと楽しみにしていたようだが(「アタサキ」宣言を日記に書いておいたくらい)、そういうことにはならずに今に至っている。
 それはともかく、その幼稚園児は、小学校高学年になって友達と好きな男の子の姓に自分の名をくっつけてきゃあきゃあ言ったりしていたのに、就職して法律的な結婚をして相手の姓に変わった途端、なぜか急に「やっぱり、これではいかん!」と旧姓で仕事を続けることにしたのであった。そして、上司から「何でおまえは夫の姓に変えないんだ」と詰問されたり、人事部から改姓届を出せと矢のように催促されたりした。
 この歌の作者も、きっと職場でそんな局面に立たされたのだろう。「えー、夫婦同姓を基本とする現行民法は時代に合っていない部分があると考えるのでありまして……」なんて言うわけには行かない。複雑な内心を隠し、にっこりと「この名前が好きなものですから」と答えてやり過ごすしかないのだ。
 かつて「アタサキ」宣言をした幼稚園児は、その後、離婚したので公私ともに元の名前になり、これからもずっとそれで行こうと思っている。そして、結婚したら男女どっちの姓を名乗ってもいいし、別々の姓で共に暮らしてもいっこうに構わないのだということを、たくさんの子どもたちに伝えられたらいいなあと願っている。

☆大田美和歌集『水の乳房』(北冬舎、1996年刊行)
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2007年07月27日

アルバイト

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  こんなところでだけアルバイトといわないでほしい あなたは何したの今日      山内 頌子

 長らく会社に勤めたから、契約社員やアルバイトの女性たちの誠実な仕事ぶりはよく知っている。そして、彼女たちがどんなに不安定な立場にいるか、どれほど薄給で雇われているかも。
 作者は若い。そして凛として働いている。この歌は、たぶん来客か部外者の前で、「この子はアルバイトだから……」のような屈辱的なことを言われた状況を詠ったのだと思う。正社員と同じように働かされ(給与からすれば、それ以上に働かされ)、そんなことを言われる筋合いはない。
 自分は安泰な立場にいて、さげすむように「アルバイト」と言った人物に対して、作者は激しく攻撃したい気持ちにもなったかもしれない。けれども、そこを抑えて「あなたは何したの今日」とやんわりと収めたところが見事だ。
 激しい怒りは、そのまま形にしても人の心に届かない。こんなふうにやわらかく、品よく述べることで、読む者にもわなわなと震えるような憤りが伝わってくる。五七五七七を大きくはみ出した破調の迫力というか、どこで切れるか分からない呪詛のような詠いぶりに魅了される。
 この歌を読んで、かつて私の職場にいた数人のアルバイトの女性たち一人ひとりの顔を思い浮かべた。電話の応対が実にしっかりしていて、笑顔のいい人ばかりだった。

☆山内頌子『うさぎの鼻のようで抱きたい』(ながらみ書房、2006年12月出版)

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2007年03月17日

後輩たちとの距離

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  若きらとパスタ食みつつ口にせしシュプレヒコール花の名のよう
                  河本 惠津子


 会社の後輩とのランチだろうか。何かの話題で「シュプレヒコール」という語が出て、若い後輩たちから「ナンですか、それ?」と尋ねられでもしたようだ。 
 作者は「そうか、そんな言葉、もう知らないのね」と感慨深く思いながら、もう一度「シュプレヒコール」という語を口にする。初めて出合う言葉のように発音してみると、それはまるで花の名のような響きをもっている。若かりし頃、デモで「シュプレヒコール!!」と叫んだときには、昂揚した気持ちをさらに高めた言葉なのに、奇妙な感じである。けれども、ここには年齢を重ねた寂しさよりも、若い人の知らない、いろいろな言葉を花束のように持っている自分を誇らしく思う気持ちがあるように感じる。
 自分のよく知っている言葉を、若い人が知らないという事実は、さまざまな感慨を抱かせる。新聞社にはそれでなくとも現場の符丁めいた言葉がたくさんあるのだが、技術革新で廃れたものも少なくない。私の場合、鉛の活字が残る職場で働いた経験があるので、「鉛版削り」だの「象嵌(ぞうがん)」といった言葉がなつかしくてならない。鉛版は、活字を組んだものを原版として紙型を作り、それに鉛など合金を流し込んで作る印刷用の複製版である。もう鉛版ができあがってから、印刷する直前に記事の間違いや誤字が見つかった場合、その部分だけ削ってしまう、というのが「鉛版削り」。その誤字部分を削った後に、修正した活字を挿入するのが「象嵌」。
 「ゾーガン」という響きは相当好きなのだが、意味が特殊すぎるし、歌にするのは難しい。「パスタ」と「シュプレヒコール」を響かせ合って、おしゃれにまとめた作者の技量はなかなかのものだ。

☆河本惠津子歌集『giraffe』(短歌研究社、2004年7月出版)

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2007年03月04日

コンビニにて

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  コンビニに昼来るときに少しだけOLだった気持ちに戻る
                  前田 康子


 不思議な寂しさと華やぎが漂う歌だ。
 勤めている人にとって、コンビニエンスストアは頼りになることこの上ない。少々スーパーより割高であろうと、それが何だろう。「私は忙しいんだから」。言いわけとも思わずに、さまざまな食品や日用品を買う。
 私も夜遅く帰り道にあるコンビニに寄っては、ヨーグルトやポテトチップスなど買ったものだ。管理職になりオフィスに閉じこもって仕事をするようになってからは、同じビル内にあるコンビニに行くのだけが楽しみ、という悲惨な毎日だった。
 ところが会社を辞めると、コンビニに立ち寄ることはほとんどない。1人前の惣菜はおそろしく高く思えるし、ストッキングや化粧品だって、ちょっとスーパーまで足を延ばせば格安で手に入るのだ。
 この歌の作者は、2人の幼い子どもを育てている人だ。外出したときに何か忘れ物をしてやむなくコンビニに入った場面かもしれないが、私は何となく、子どもを連れて近所にあるコンビニにふらりと入った場面のように感じる。「会社勤めの頃は、ランチによくこんなお惣菜を買ったわねぇ」「同僚と新製品のお菓子を見つけては喜んでたなあ」……ふっと懐かしく若やいだ気持ちになる傍らで、子どもはしゃがみ込んでおまけ付きのお菓子なんぞいじっている。あの頃の気持ちを自分はまざまざとよみがえらせることが出来るのに、もうそこへは二度と戻れない−−。
 コンビニの店内の奇妙な明るさと、作者の翳りを帯びた感情とが、何ともいえない揺らぎを作り出している。

☆前田康子歌集『色水』(青磁社、2006年7月出版)

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2006年09月12日

通勤電車

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  膝の上の温き重さの甦る通勤電車の座席に沈みて
                  森尻 理恵


 保育園に子どもを預けて働く人にとって、通勤時間は親から勤め人に変わる大事な時間である。
 子どもは時々、別れ際に大泣きすることがある。そんなときは電車の中で「何でこんなつらい思いをしてまで働いているんだろう」と勤務先に着くまで悶々としたりもするが、通常は子どもと別れた途端に頭の中が切り替わり、「ええと、今日すべきことは……」と仕事モードになるものだ。
 ところが、思いがけなくぎゅう詰めの電車ですわれた作者は、膝の上の温もりを思い出してしまう。大体、小さな子どもを育てているワーキングマザーというもの、そうそうゆっくりすわっている時間がないのだ。電車の中では立ちっ放しだし、家に帰れば夕食の準備や洗濯に追われ、ほとんど休む暇がない。ほっと息をつけるのは、子どもを膝に抱いて絵本を読んでやるときくらいなのである。だから、珍しく電車ですわれた作者は、「あれっ」という感じで子どものいない空っぽの膝を奇妙に感じてしまったのだと思う。
 「温き重さ」は、小さな子どものみっしりと熱い体を思わせてリアルだ。「沈みて」には作者の疲れが表れている。「一日でいいから何も家事をせず、たっぷり眠りたい」と思わないワーキングマザーはいないだろう。そんな疲れを抱えた通勤電車の中で、やっぱり子どものことを考えてしまう母親の愛情が、しみじみと伝わってくる歌である。

☆森尻理恵歌集『グリーンフラッシュ』(青磁社、2002年8月出版)

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2006年08月25日

働く

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  口角を上げよ背筋をぴしと張れ働く女は日輪の花

 すべての女は働いている。賃金を得ていないとしても、洗濯したり料理したり、子どもの世話をしたり……と、誰もが日々、さまざまな仕事をしているに違いない。
 ――というのは、しかし、言いわけである。実は、この歌を作ったときには、自分を鼓舞したいような気持ちだったので、「働く女=会社で働く女」というイメージを抱いていた。こうでも詠わないと立っていられず、へなへなとくずおれそうな状況だった。仕事に誇りを持ち、いつも姿勢よく足早に歩くよう、自分に呼びかけたかった。
 あるとき、困ったような笑いを浮かべた歌の仲間から「働く女は日輪の花、とか言われてもねぇ……」と言われて、はっとした。彼女は多分、この歌に「私は頑張っている!」という鼻持ちならないにおいを嗅ぎとったのだ。高校教諭としてずっと働き続けている人である。家庭も持っているから、仕事との両立は決してたやすいことではないだろう。けれども彼女は、自分だけが「働く女」の代表のように気負っている私の歌には違和感を抱いたのだ。恥ずかしかった。
 とはいえ、自分の歌だから愛着がある。この歌が当時の私を慰め、励ましてくれたことは確かなのだ。対象を20代のサラリーウーマンに限定した応援歌、そういうことで何とか許してもらえないだろうか、なんて思う。

☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月出版)
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