2014年01月04日

嶋田さくらこさんの歌集

『やさしいぴあの』

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 ぴあのぴあのいつもうれしい音がするようにわたしを鳴らしてほしい

 読むたびに胸がいっぱいになり、やわらかな気持ちにさせられる。これまでに出会った歌の中でベスト10に入るくらい大好きだ。
 そもそも歌集のタイトル『やさしいぴあの』に魅了される。ピアノは私にとって特別な楽器であり、大切な友達だから。きっと作者もピアノが大好きなのだろう、と思う。
 弾く人が違えば、同じ楽器でも違う音がする。自分の気分によってもタッチは変わる。「うれしい音」がするのは、弾く人がピアノのことが好きだからであり、その人に弾かれる「わたし」もそれに応えようとして、よい音を響かせる――ああ、こんな解説をするのは実に野暮なことだ。この歌の弾むような思いの美しさ、楽しさを愛の至福と言わずに何と言おう。
 初めてこの歌を読んだとき、涙ぐんでしまった。気持ちがとても落ち込んでいる時期だったからだ。「やさしく弾いてくれれば、私もやさしい音を出すのに。私だっていつも『うれしい音』を出したいのに。なのに、なのに……」と恨めしい思いも味わいながら、この歌のひたむきな明るさにうっとりさせられていた。

  おとうふの幸せそうなやわらかさ あなたを好きなわたしのような

 大好きな二首目。恋をしていたころの自分の気持ちがよみがえる。下の句のまっすぐさがいい。共に暮らすようになると、どうしても「あなたを好きなわたし」が時々どこかへ行ってしまう。けれども、心の底にはちゃんと「あなたを好きなわたし」がいて、「あなたなんか『大っ嫌い!』と思うわたし」を悲しんでいるのだ。
 スーパーに行くたびに、この歌を思い出す。島豆腐はけっこう丈夫で、ふるふるとした絹ごし豆腐のようなやわらかさではないけれど、滋味を感じさせるたまご色をしている。

  つぶやきは真夜中の雪 ささやきは暁の雨 春になりたい
  にんじんの皮は剝かずに切り刻むその断面が春になるまで
  サンダルを脱いで走った砂浜の夜までたどり着けますように


 詩のある日々の美しさ。人は生きてゆくうえで詩を必要とすること。そんなことを改めて思わされた。この歌集をひらくたびに、私はしあわせになる。

  行くことのない島の名はうつくしい 忘れられない人の名前も
  シェリー酒がどこの国からきたかとかそんな話題がいいね、深夜は
  本棚でぼんやりしてる楽譜から「レ」と「ラ」を抜いてエイサー踊ろう


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 歌集の章のタイトルも洒落ている。T章は「手のひらが小さいひとのためのエチュード」、U章は「L’ensemble des dissonances」(不協和音のアンサンブル)、V章は「ドルチェ、モルト・エスプレッシーヴォ。」。
 T章の冒頭に置かれたロベルト・シューマンの言葉を胸に、今年はピアノを弾こうと思う。「やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。ひく時には、誰がきいていようと気にしないこと」
 ピアノを弾くことと人を愛することは、たぶん似ている。やさしい曲――日常、をおろそかにしてはいけない。

   ☆嶋田さくらこ『やさしいぴあの』(書肆侃侃房、2013年11月)
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2012年09月14日

津川絵理子さんの句集

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『はじまりの樹』

 句集や歌集を読み、人に惚れるということがある。なぜか女性である場合がほとんどだ。津川絵理子さんには心底、惚れてしまった。

  風鈴を鳴らさずに降る山の雨
  ものおとへいつせいに向く袋角
  向き合うてふつと他人やかき氷


 切り取られた瞬間の、何と生き生きしていることだろう。この人の清新な感覚が捉えた景に、ただただ魅せられてしまう。
 俳句は男性的な文芸と言われるが、女性ならではの句というものが確かにある。

  綾取や十指の記憶きらめける
  群らがつてひとりひとりや日記買ふ
  山笑ふ雑巾のみなあたらしく


 「綾取」の句は、幼い日から今に至るまでの時間が織り込まれていて、実に味わい深い。また、来年の日記を売るコーナーに人が集まる様子から「ひとりひとり」であることを思う知性の濃やかさに感服する。新しい雑巾の清々しさは、何か藤沢周平や宮部みゆきの時代小説に登場する、凛と美しい女性たちを思い出させる。
 そして、この人の愛の句が本当に素晴らしいのだ。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀
  助手席の吾には見えて葛の花
  滝涼しともに眼鏡を濡らしゐて


 人を愛するなら、こういうふうに愛したい――何だか涙ぐみそうになって読んだ。丁寧に愛し、丁寧に生きる人だけが詠める句だと思う。

  捨猫の出てくる赤き毛布かな
  飼ひ犬の老ゆるはやさよ鴨足草
  深々と伏し猟犬となりにけり


 動物の好きな人らしい。どの句にもあたたかみがある。最後の一句、この作者の魂の大どかさというか、作者自身にも理解し兼ねるわけの分からなさのようで、特に愛誦する。

 *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂、2012年8月刊行)
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2012年08月28日

山口明子さんの歌集

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『さくらあやふく』

 いじめの問題を考えるたびに、学校の先生の大変さが思われてならない。メディアでは責任逃れしたがる教師ばかりが糾弾されるが、現場には心身をすり減らして生徒たちと向き合っている人がたくさんいる。

 ターゲット変へていぢめを繰り返す深き根雪を心にもつ子
 いかにして育てるべきか惑ひをりいぢめをしつつ試合に勝つ子
 班長の女子を容易に泣かせたりヘラヘラしつつ針のごとき子


 作者は岩手県の公立中学校教諭である。いじめられている子の悲しみや悩みを取り上げた歌は何度も読んだことがあるが、私はこの歌集で初めて、いじめる子を見つめる歌というものに出会った。
 一首目の「根雪」という言葉には、深い人間観察が表れている。その子の抱える重苦しいかたまりを思いやる気持ちがしんしんと伝わってくる。二首目からは、スポーツが得意な活発な生徒像が浮かび上がる。もしかするとクラスで中心的な存在なのかもしれない。「ちょっとした指導で、この子はいじめる側でなく、いじめをなくそうとする立場にだってなれるのではないかしら…」と思い惑う作者なのだろう。三首目の下の句には、かすかな嫌悪感、恐怖感が滲むだろうか。しかし、作者はこの子も否定はしていない。
 この三首がいずれも「〜〜子」で終わっているのは、修辞に凝る余裕がなかったということではないと思う。作者は、この子たちのありように余計なコメントを付け加えたくないのだ。
こんなふうに一人ひとりの生徒に心を砕いている先生たちが、職場の上司から理不尽な指示を受ける。

 「いぢめとふ言葉使ふな」上からの指示を拳を握りつつ聞く

 現場の教師が対面するのは、いじめだけではないことも思う。さまざまな家庭環境があり、さまざまな性格の子がいる。

 人を恋ふこころどうにも出来ぬ子がリップクリームを盗む放課後
 「つまらない遠足でした」と書いてくる日記顔面に水をかけらる
 注意せし我をにらむ子の目の奥に潜めるものを読み取れずをり
 わがひいき指摘する文にたつぷりとひいきされたき寂しさを読む


 教師にも感情というものがあるし、いろいろな限界を抱えている。しかし、それでもやっぱり子どもが好きだという気持ちに、私たちは感動する。万引きして警察から連絡を受けたり、「つまらない遠足でした」「○○さんをひいきしている」などという文章に傷つけられたりしても、この作者は、そこに満たされない思いや「ひいきされたき寂しさ」を読み取る。

 
 授業中反応せぬ子がわが言ひし本借りに来る つくし芽を出す

 「こういう本があるよ。先生もすごく好きなんだ」と授業中熱心に勧めても無表情だった子が、その後でむっつりと「先生、あの本、ある?」なんて尋ねてくる。思春期の子どもというのは何と扱いにくく、いとおしい存在なのだろう。「つくし芽を出す」には、作者の抑えがたい喜びがあふれていて胸が痛くなる。

  本箱が本を吐き出す部屋の中化粧水濃く瞬時ににほふ
  カーナビは知人の宅を不意に告ぐ がれきのみなる道走るとき


 岩手郡滝沢村に住む作者は、東日本大震災の大きな揺れを経験した。部活や宿泊研修の引率で、かつて宮古や釜石、陸前高田といった被災地を何度となく訪れた経験もあるという。自身の感情を抑制した歌の数々は臨場感に満ちている。学校のみならず、さまざまな現場に誠実に向き合う作者のまなざしが、本当に美しい。

 *山口明子歌集『さくらあやふく』(ながらみ書房、2012年8月刊行)
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2012年07月25日

日比野幸子さんの歌集

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『四万十の赤き蝦』

 先日、同じ短歌結社「かりん」に所属する日比野幸子さんの歌集『四万十の赤き蝦』の批評会が行われた。彼女は16年前に乳癌を発症し、現在、転移した癌と闘っているところである。批評会当日の朝の体調は思わしくなかったというが、気持ちの昂揚のせいか、会には笑顔で出席され、最後に「もっともっと歌を作ります」と力強く語られた。とてもよい会だった。

 赤い三輪車雨に濡れおり虐待の家映さるる画面の端に          
 ヒラリーの撤退宣言聞く朝のゆですぎたグリーンアスパラのサラダ   
 その苦痛われのものなり避難所にウィッグなき頭のおみな映れば


 日比野さんが優れた観察者であることは、テレビを見て作られた歌だけを見ても分かる。一首目は児童虐待のニュース映像の「画面の端」にある「赤い三輪車」に着目した視点が光る。小さな三輪車は虐待された子どもの姿そのもののようだ。こんな見過ごされやすいところにも作者のまなざしは注がれ、その無惨さから逸らされることはない。
 二首目は2008年6月の、米大統領選に向けた民主党候補の指名争いで、ヒラリー・クリントンがオバマを全面的に支持することを表明し、自らの「撤退」を明らかにしたニュースが詠まれている。作者の思いはストレートには表現されていないが、「ゆですぎたグリーンアスパラ」に感じられる失望と落胆に惹かれた。何とも言い難い割り切れなさが、下の句の大幅な字余りからリアルに感じられる。
 三首目は、東日本大震災を詠ったものだ。着の身着のままで避難所へ身を寄せた人の中には、いろいろな病気の患者さんがいただろうし、その中には放射線治療の副作用によって頭髪を失った人もいたに違いない。私たちはなかなか他人の痛みを自分のものとして感じられないものだが、日比野さんは容貌の変化を隠す「ウィッグ」さえ持たない女性の所在なさ、悲しみを自分の痛みとしてひりひりと感じており、そこに深く打たれる。

 ももいろの「保育士募集」のはりがみの時給の安さをうつ秋の雨     
 王朝の妻の座のごときはかなさに二人目産めば消える席あり       
 子のあれど仕事のあれどさびしいといつか娘の見む道のエノコロ 
     

 作者は教師として長年働いた人であり、自分の娘もまたワーキングマザーとして奮闘している。「保育士募集」の貼り紙が甘い「ももいろ」であり、それを容赦なく冷たい「秋の雨」が叩いている情景は、実に切実だ。働く母親たちも苦しいが、彼女たちを支える保育士たちの現実もまた苛酷なのだ。
 「二人目」を産んだ女性の職場におけるポジションの危うさを、「王朝の妻の座」に喩えた二首目は、古典に親しんできた作者ならではの作品だろう。夫や組織の気まぐれに翻弄される女性へのシンパシーが、時空を超えて詠われている。
 三首目は少し独特かもしれない。「出産か、キャリアか」という二者択一の時代を経て、「子どもも仕事も」というわがままが通る時代となった。それはある意味「勝ち組」の女性である。しかし、他者から「勝ち組」と見なされとしてもなお、女性は何か根源的なさびしさというものを抱え続けるのだ。

 バリトンのよき声の医師やわらかく研究に資する治療を選べ
 実習のリスのような女子医学生副作用の苦に驚きやすし
 なにゆえにわれ病みたるかわからねど海の珊瑚は人ゆえ病めり
 

 日比野さんの透徹したまなざしは、自らの病を超えて世界へ広く注がれている。病むならば、このように鋭くタフな患者になりたい――そんな憧れさえ感じさせられる。病は残酷だが、屈することのない健やかで豊かな歌ごころがあふれ、元気になる歌集である。

 *日比野幸子歌集『四万十の赤き蝦』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2011年06月17日

やすたけまりさんの歌集

『ミドリツキノワ』

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 「不思議、大好き」というコピーは、本当に素敵だったと思う。子どもも、おとなも、「不思議」が大好きだ。「不思議」とは、センス・オヴ・ワンダーであり、文学にも科学にも必要なものだと私は思っている。

 分子ひとつの決意はいつも正しくて金平糖の角がふくらむ

 「やすたけまり」という、ひらがな書きの名前の歌人は、とてもやわらかい言葉で「不思議」を詠う人だ。この金平糖の歌も、すっと読めてしまうけれど深いものを秘めている。
 寺田寅彦の随筆に「金平糖」という一篇がある。金平糖の製造過程において、角のような突起が生じる物理的条件をあれこれと考察した内容だ。実のところ、金平糖の角ができるメカニズムはまだ完全には解明されておらず、今もいろいろな研究が続けられている。
 この歌の「分子ひとつ」の擬人化は決して甘いものではない。私たちはその「決意」の堅固なこと、美しいことにうっとりさせられる。見えない力によって砂糖の結晶が突起を伸ばす現象の、何と不思議なことだろう。
 こうしたセンス・オヴ・ワンダーは、彼女の歌の本質だ。

 地球ではおとしたひととおとされたものがおんなじ速さでまわる
 ながいこと水底にいたものばかり博物館でわたしを囲む
 なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました
 

 「おとしたひと」「おとされたもの」は、地球外から見るなら「おんなじ速さでまわる」存在である。「ひと」も「もの」も「おんなじ」であると見るまなざしに魅了される。博物館において「わたしを囲む」のは、化石標本だろう。化石は、海や湖だったところに生物の死骸が沈み、その上に泥や砂が堆積した後、長い歳月を経て出来たもの、つまり「ながいこと水底にいたもの」なのだ。「なつかしい野原」には、セイタカアワダチソウのような外来種の雑草ばかりが生えていた。そのことをおとなになって発見すると、何か郷愁と悲しみが入り混じった奇妙な気持ちを味わう。

 ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まよ
 うパレット
 本棚のなかで植物図鑑だけ(ラフレシア・雨)ちがう匂いだ
 凍らせた麦茶のなかにもっている ゆがんで溶ける水平線を


 出版されたばかりのこの歌集には、「幼ごころ」がたっぷりと詰まっている。幼ごころというのは幼稚なものではない。真実をまっすぐ見つめるまなざしを持ったものだ。センス・オヴ・ワンダーに満ちた世界を描き出した、この歌集がたくさんの人に届きますように。

 ☆『ミドリツキノワ』(短歌研究社・2011年5月、1700円)


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2010年11月19日

黒沢忍さんの歌集

『遠』

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 繊細にして大胆−−。そういう生き方に憧れる。そして、そんな歌をつくりたいと願っている。だから、この歌集を読み、とても心を揺さぶられた。

  昼と夜つくりし神のくちびるが幽かうごきて水面(みなも)をゆらす
  浅間山火口を満たす月光の嵩深ければねむるたましひ
  夏山のみどりにハッときづく朝 愛宕山こそ抹香鯨


 一首目は、「神のくちびる」の上下が「昼」と「夜」であるかのような見立てで、どきどきさせられる。そして、それが触れあうところとして「水面」がある。薄暮の中でかすかにゆらめく水面が、この上なく美しく表現されている歌だ。二首目は、火口に月光が満たされているというスケールの大きさと儚さに、うっとりさせられる。三首目の下の句には、もう脱帽するほかない。何とまあ語調のよく、大とかなフレーズだろう。敢えて言えば、上の句の「ハッと」が少しばかり古くさく、ない方がよかったと思うが、それはこの歌の本当に小さな欠点だ。「抹香鯨」の存在感には、ただただ舌を巻くのみである。

  葉脈がまだまだ弱いこの町に去年(こぞ)の秘密はいまだに漏れず
  おづおづと寒立馬(かんだちめ)の目のひらくとき見えてくるのは愛だとよいが


 この人の想像力は、何もかも飛び越える強さがある。謎と飛躍に満ちた一首は、人を陶然とさせる。町と葉脈、馬と愛……、分からないけれど分かりそうな感じに惹きつけられてしまう。こうした歌に比べれば、「千年をアルコール液に棲む蜥蜴ちひさきゆびを瓶に当てをり」なんていう歌は、ごくごく当たり前に見えてしまう。この蜥蜴の歌にしても、かなり細部にまで観察眼がゆき届き、巧者な作品なのだが。

  空からの雨の粒子に囲はれてきつとわたしはこはい顔です
  わたくしは灯台守の妻となりきみの一生(ひとよ)を狂はせたかつた


 自分にもわからない自己というものがある。また、「あったかもしれない自分」という無数の存在もある。たいていの人は、そんなものは見ないようにして日々の生活を送っているのだが、この作者はそれを凝視する。そこに詩が生まれる。
 「こはい顔」をしている自分は、何を思っているのだろう。怒っているのか、悲しんでいるのか。何の説明もないのだけれど、降りしきる雨の中、読者もまた険しい顔をしている自分を発見するに違いない。そして、心底なりたいものがあるとすれば「灯台守の妻」であったことも、しみじみと思うはずだ。それがなぜなのか、「わたくし」が「きみ」がどういう関係なのか、何も示されていないのだけれど、渇きにも似た思いで「きみの一生を狂はせたかつた」と思わされる自分がいる。

  ゆふやけがあんなにひかつてあれはなに あれは天使よかへつてゆくわ

 詩歌は日々の糧である。こんなにも人の心を慰め、豊かにする。自分の翼が心もとなくて、地上から1センチも飛び上がることができないとき、かろがろと夕雲のあたりまで連れていってくれる詩があればこそ、人生は楽しい。

 ☆黒沢忍歌集『遠(ゑん)』(ながらみ書房、2010年11月)
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2010年09月24日

光森裕樹さんの歌集

『鈴を産むひばり』

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 秋の澄んだ大気を思わせる歌集である。抒情はあくまでも透明であり、全体にヨーロッパ的な雰囲気と昭和のノスタルジーが混ざったような不思議なテイストが漂う。

  ポケットに銀貨があれば海を買ふつもりで歩く祭りのゆふべ
  嗚呼秋はひつつきむしの形して取つてあげるよセーターの秋


 繊細でありながら、伸びやかな詠いぶりが実に魅力的だ。1首目は「銀貨」が効いている。「祭り」は日本のどこでも見られる夜店の並んでいる風景のようだが、「銀貨」があるために別の時空とつながった感じを受ける。2首目は季節感たっぷりに、近しい間柄の2人の姿が描かれ、じんわりとした味わいがある。
 はっとさせられる発見というか作者ならではの見立てが多いことも、この歌集の魅力である。

  ゼブラゾーンはさみて人は並べられ神がはじめる黄昏のチェス
  てのひらに受けとめるたび此の星と密度等しき林檎とおもふ
  野におけば掛かる兎もあるだらう手帳のリングを開いては閉づ
  泳ぐとき影と離れるからだかなバサロキックでめざす大空


 横断歩道を挟んで人々が赤信号で向かい合う風景が、こんなにも鮮やかに捉えられているとは! 小さく見える人々は、映画「第三の男」の観覧車のシーンを思わせたりもするのだが、この作者のまなざしはもっとあたたかい。2首目の見立ては、小さなものから大きなものへと移る視点のダイナミズムが見事だ。かと思えば、3首目の何と愛らしい残酷さだろう。思わず、長年使っているシステム手帳を開いてしまった。4首目は、常に自分の影と離れることのできない人間も、泳ぐときに影から離れ、あたかも空を飛んでいるようだ、という楽しい歌。
 この作者はものごとを静かに見つめる。決して、さまざまな世の出来事に動かされない。そういう視線でなければ発見できない事柄が、世界にはたくさんあるのではないかと思う。

  乾びたるベンチに思ふものごころつくまで誰が吾なりしかと
  ものごころ躰に注がれゆく音を土鳩のこゑとして聞いてゐた


 幼年期というものの不思議、自我の芽生える以前の時間を見つめた佳品である。また、この作者の最も本質的な抒情が表現されている歌ではないかと感じる。
 少しばかり怖い歌も並ぶ。

  ドアに鍵強くさしこむこの深さ人ならば死に至るふかさか
  内側よりとびらをたたく音のして百葉箱をながく怖れき
  静電気おそれてわれが開かざる万の扉のノブのぎんいろ


読者を楽しませる術をよく知っている人でもあるのだな、と感心する。思いがけない表現でびっくりさせるけれども、あざとさがない。
 
 −−これはなに
 此れは貝殻
 −−それはなに
 其れも貝殻、みんなかひがら


 貝殻は美しくもあるけれど、壊れやすくて儚いものだ。過ぎてしまった歳月や失った夢や恋人、そんなものすべてが「其れも貝殻、みんなかひがら」なのではないか。心地よいリズムに身をまかせながら、甘い痛みを覚える。
 リフレインが多いのは、言葉の響きをこよなく愛する作者だからだろう。三十一文字に意味を詰め込み過ぎることは決してしない。また、過度の感情も盛り込まれることがない。「ヨーロッパ的な雰囲気」という印象は、抒情が湿っぽくなく、抑制が利いているからかもしれない。何というか、crisp と表現したいような空気を感じさせるのだ。
 秋の夜長にじっくりと時間をかけて楽しみたい歌集である。

☆光森裕樹歌集『鈴を産むひばり』(2010年8月、港の人・発行)
posted by まつむらゆりこ at 09:09| Comment(12) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

引っ越しました

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  南から風が吹くとき八重山に夏が来るなり祝祭のごと

 いよいよ石垣島での生活が始まった。
 ダイビングをするために初めて訪れてから二十回近くは来ているので、町並みや景色にもなじみが出来たし、それほど驚く事はないと思っていた。しかし、それはとんでもない思い違いだった。
 南の島、というと、まず暑さのことが頭に浮かぶ。「私は寒いのはダメだけど、暑いのは平気! ずーっと千葉でエアコンなしの生活もしてたしね」と思っていた。ところが! 空調の効いたホテルと、ふつうの家では、だいぶ環境が異なる。ふつうの家は湿度が恐ろしく高いのである。晴れている日はそれほどではないが、昨日のように一日中雨だと、空気はどんどん重くなる。そして、そのへんに出しておいた封筒やコピー用紙が、しなしなと湿気を含んでやわらかくなってゆく。ボールペンで強く書くと、破れるのではないかと思うほどだ。
 そして、まだ整理できずに本棚に突っ込んである、たくさんの本のページ、特にソフトカバーの本が、見るからに波打っているのが分かる。がーん。このほど出版したばかりの第三歌集も、仮フランス装なので、くんにゃりとなりかけているではないか。早く誰かにあげてしまわなければ……。
 
  島豆腐にわれはなりたし渾然とチャンプルーになるまでの快
  海神の遊びごころの放埓さ南の魚の紋様無限
  島ひとつ産みたし小さき川流れ海へと注ぐ湾ひとつあれ


 旅と生活というのは、全く別のことなんだなあと思う。ここに挙げた歌は、今度の歌集に収めたものだが、旅行者としての歌でしかない。これから何年も住み続けるうちに、心のありようも少しずつ変わってゆくだろう。自分の歌がどんなふうに変わるか、とても楽しみだ。島に来る前に三冊目の歌集を出せたことが嬉しい。

☆松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2625円)
posted by まつむらゆりこ at 10:42| Comment(26) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

興津甲種さんの歌集

『楕円形』 

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先日、旅の途中で、津和野にある安野光雅美術館を訪れた。絵が素晴らしいのはもちろんだが、パネルの一つに、安野さんが絵を描くときの「おまじない」が書いてあったのが、特に心に残った。
 「わたしは下手 まだこども」というのが、そのおまじないである。「わたしは下手 好きなだけ いま美術の時間」というのもあった。ああ、いいなあ、これは自分も使えるなあと思った。「わたしは下手 好きなだけ いま国語の時間」
 歌は技術的にうまくなったからといって、いいものにならないのが難しいところだ。いつまでも「まだこども」と思える驚きや敏感さを持ち続けなければ詠めない。
 そんなふうに年齢を重ねられる人は、多くはないが、興津甲種さんもその一人だと思う。93歳のこの歌人の歌の何と自由で、伸びやかなことだろう。

  起き出した<着衣のマハ>が裾を蹴り歩いてゐるよ銀座の夏を
  花好きのひとが意外と非情なり少し萎えたるを容赦なく捨つ


 この瑞々しい感性、鋭い人間観察には、ただただ感服するばかりである。
 とりわけ歌人の心がやわらかく揺れるのは、亡き妻を思うときである。挽歌というのは究極の相聞歌でもあるのだと、胸を詰まらせながら読んだ。

  黄泉路ゆく君は手ぶらか愛用のバッグ五つが残りて並ぶ
  一抜けた大きな大きな一抜けた梅雨の紫陽花藍のしたたり
  この頬に触れる頬なくいたづらに春夏秋冬頬の髯剃る
  稲妻が鋭く光り弾けたり 抱きつくひとがかつてはをりき


 夫婦という形の美しさを、しみじみと思う。こんなにも人は愛し合うことができるのだなあと胸がいっぱいになる。そして、自分もまた、こんなふうに一人を愛し続けたいと願う。
 妻がいなくなって残されたバッグを見て、「手ぶら」の妻を思う一首目、童心そのままに人を恋う二首目、そして、明るく品のよいエロティシズムの漂う、三、四首目。どれも胸がきゅっと詰まるようだ。

  観覧車回れよ回れ九十歳越したるこの世ゆつくり回れ
  老いてなほ地下水のごとき春愁や梅・桃・桜散りて沁み出す


 栗木京子の名歌を本歌とした一首目の軽妙さ、「地下水」に喩えられた深いところにある心動きの詠われた二首目の切なさ、どれも読む者を立ち止まらせる。
 この歌人のよさは、余裕ある詠いぶり、ユーモアによく表れている。

  風呂に入り役目果せしもの洗ふ遺物なれども余生を共に
人体の骨格模型が立つてゐる 湯上りに見る鏡の中に
「これがふんどし」ナース珍奇の声あぐる 俺は「さうだ」と英雄きどり


 何ともいえない可笑しみは、作者の人柄、人生経験の豊かさから来るのだろう。人生の滋味あふれる歌集は、読めば読むほど、味わいが深まるのであった。  

 ☆興津甲種歌集『楕円形』(角川書店・2010年3月、2700円)
posted by まつむらゆりこ at 00:00| Comment(9) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月16日

杉ア恒夫さんの歌集

『パン屋のパンセ』

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 詩歌は基本的に、人のこころを明るくするものだと思う。けれども、短歌は悲しみや寂しさといった感情を盛るのに適した器なので、ついマイナスの感情を注いで自分を慰めてしまう。
 だから、どこまでも透きとおる杉ア恒夫さんの歌に出会ったときは、本当にうれしくて、胸がどきどきした。

  地下駅に季節がふいに目をさます「春は前駅をでました」
  濁音を持たないゆえに風の日のモンシロチョウは飛ばされやすい
  爆発に注意しましょう玉葱には春の信管が仕組まれている


 ちょうど今くらいの季節が詠われた作品を引いてみた。一首目は、なかなか来ない春を待ちわびている作者が、ふと季節の変化を感じ取った喜びが表現されている。都会的で何ともしゃれている。二首目の、モンシロチョウのはかなげな様子が「濁音を持たないゆえ」という見立てには、ため息をつくばかりだ。三首目は、芽を出した玉葱を茶目っ気たっぷりに詠ったものだ。みずみずしい黄緑色の芽が、鮮やかに目に浮かぶ。
 杉アさんは、長く国立天文台に勤められた方だ。昨年4月、90歳で亡くなった。詠われた題材が身近な昆虫や植物であろうと広大な宇宙であろうと、杉アさんの歌には透明な抒情と哲学的な思索があふれている。


  晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない
  星のかけらといわれるぼくがいつどこでかなしみなどを背負ったのだろう
  ペルセウス流星群にのってくるあれは八月の精霊たちです


 スケールの大きさと少年のような繊細な感覚が、えも言われぬ調和を見せている。ここには、短歌が引きずってきた湿っぽさは微塵もない。私たちの体を構成する分子が星と同じであること、毎年8月にはペルセウス流星群を見ることができ、それがまるで8月の死者たちを思わせること……どの歌にも深いまなざしが注がれている。
 この歌集に収められた作品は、70代から80代に作られたものだという。何と初々しく、輝きに満ちた歌なのだろう。
 杉アさんの歌を読むと、自分が普段いかに「短歌的」な表現に甘んじているかと恥ずかしくなる。文語表現に寄りかからなくても、こんなに美しい響きと景を作り出すことができるのだ。自分は全く既成の表現の域を出ていないと省みるばかりだ。

  休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される
  一番はじめに出会ったひとが好きになるペコちゃんだってかまわないもん
  どうしても消去できない悲しみの隠しファイルが一個あります


 上質なユーモアと品格は、読後もずっと心に残る。こんな歌が一首でもつくれたらなあ、と思う。大好きな人に何か歌集をプレゼントしたいという人がいたら、絶対に薦めたい一冊である。 

 ☆杉ア恒夫歌集『パン屋のパンセ』(六花書林・2010年4月、2100円)
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2010年04月02日

松木秀さんの歌集

『RERA』

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 目を凝らして物事を見ること。情報に流されずに、自分の価値観でニュースや出来事をとらえ直すこと。本当にむずかしいが、それに挑戦し続けている歌人が、松木秀さんだと思う。

  誰しもが「空気を読んだ」だけだろう沖縄戦の集団自決

 2冊目となる、この歌集のあとがきに「私が短詩型の実作をはじめたのは、まず川柳の分野においてでした」とあり、ああ、と合点の行く気がした。「沖縄戦の集団自決」の歌を読んで思いだしたのが、川柳作家の鶴彬だったからだ。鶴は「万歳とあげて行った手を大陸において来た」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」「タマ除けを生めよ殖やせよ勲章やらう」などと、痛烈に日中戦争を批判した人である。
 「空気を読む」ことの恐ろしさを、私たちは日頃あまり考えない。「読まない」「読めない」人をあてこすることはあっても、「読む」人に対しては「常識のある人」「話が通じる人」と受け取ることが多いと思う。しかし、「空気」とは何だろう。
 戦時中の「空気」を私たちは知らないが、かなり重苦しく人々を支配したのは確かである。空気を読むという最近の言葉を用いることによって、沖縄戦における悲劇が一気にリアルなものとして提示されているのは、本当にすごい。松木さんは、意味優先で作られた自分の短歌は古びるのが早いと嘆いているが、古びてしまうものだけではない。こんなふうに過去をまざまざと現代によみがえらせることだって出来るのだ。
 集団自決に対する、やりきれない思いがなければ、この歌は作られなかった。そして、それが日本人特有の「空気を読む」ことの最悪、極限の状況において起こったのではないか、という視点こそ作者独自の切り口である。この諷刺の見事さ、嗤いの強さには圧倒される。

  二〇〇一年九月十日の夜までは二十世紀は続いていたり
  検索でひとまず少し知ってみる深く知るため電源を切る


 歌を作るという行為は、日常のなかで立ち止まることではないかと思う。あふれる情報に溺れ、慌ただしさに流されるままでは、何ひとつ自分でつかむことはできない。そして、優れた歌を読むと、読んだ者も「立ち止まる」ことができる。
 一首目は、「9・11」が起こるまで、20世紀の気分が続いていたことを鮮やかに提示している。もちろん、2001年が明けたときから21世紀は始まっていたのだが、何となく右肩上がりで一応は平和な20世紀の気分のなかにいたのを思い出す。あの夜(日本時間)を境に、世界の様相は劇的に変わってしまったのだと改めて思う。
 二首目は、まさに「立ち止まる」ことの大切さが詠われている。何かを知りたいと思ったとき、インターネットで検索するのは、もはや当たり前のことになってしまった。しかし、パソコンの電源を切り自らの考えを深める選択肢は、私たちにちゃんと残されている。それをするかしないか、だけなのだ。

  ごみ箱は何でもごみにしてしまうミカンの皮も記念写真も
  「おすすめの本があります」Amazonに教えられては買う本の束
  レーガンやサッチャーが惚け中曽根が惚けぬ理由は俳句にあるか
  夢の中筒井康隆あらわれて既知外既知外叫んで通る


 読んでいて何度もふき出してしまった。いろいろな笑いがある。そして、毒がある。
 短歌について講演したとき、「面白い題材を詠った短歌と狂歌の違いは何ですか」と訊ねられたことがあるが、うまく答えられなかった。今の時代、川柳に比べると、狂歌はあまり盛んではない。短歌が諷刺や笑いをも包括するようになったということだろうか。松木さんの作品は、現代短歌のなかで異彩を放ち、歌の世界を豊かに深めていると思う。
 この歌集には、やわらかな抒情が漂う歌もいくつかあり、とても楽しんで読んだ。

  そのむかし熊は神なりきこの土地にレラという名の風吹きしころ
  はつなつの風れられらと過ぎゆきて銀のしずくのしたたるまひる
  つなぐほどさみしいはるのゆびさきをそれでもかさねあって、みず
いろ

 松木さんは北海道登別市に住んでいる。歌集のタイトルでもある「レラ」は、アイヌ語で「風」を意味するのだという。一首目で詠われた、熊が神だったころの風も、二首目の「れられらと」吹きすぎる光る風も、本当に美しい。
 時に毒を含む哄笑を込めつつ、松木さんは歌の韻律や抒情をこよなく愛する人なのだと思う。しかし、そこに浸ってしまうことへの照れがあるのかもしれない。松木さんの鋭いまなざしと笑いをこよなく愛するファンの一人ではあるが、読者のことは気にせず、心の赴くまま存分に詠い続けてほしい。

 ☆松木秀歌集『RERA』(六花書林・2010年5月、2100円)
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2009年12月04日

馬場昭徳さんの歌集

『マイルストーン』

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 ニュースやニュース用語を歌にするのは、なかなかに難しい。どうしてもスローガンみたいになったり、説明的になったりするからだ。だから、この歌集に出てくるような歌を読むと、「うーん、うまい!」と感服してしまう。

 東証の平均株価のもみあひのごとき小心者と言はれつ
 人間がひとつになれるラストチャンスかもしれなくて<温暖化防止>


 「東証の平均株価」がこんなふうに詠われるなんて、思ってもみなかった。「よりつき」とか「もみあい」など、経済用語には面白い言葉がある。この歌は「言はれつ」となっているが、こんな洒落た表現は作者自身が考えたに違いないと思う。
 温暖化防止にロマンを感じている二首目も、とてもいい。ここ数年、温暖化を詠んだ歌はかなりたくさん見たが、自然現象の異常を温暖化によるものだろうかと不安がる、ごく当たり前の歌ばかりだった。この歌は人類が一つの目的に向かって団結する、という壮大な夢を抱いているのだが、口語調のやわらかさ、ほんの少しの軽みが相まって、スローガンのようにはなっていない。「ホントだね! がんばろうよ」なんて応じたくなってしまう。
 この作者、機知に富んだ歌ばかりではない。植物や自然へのまっすぐな感動を詠った作品がまた魅力的だ。

 茄子、胡瓜無言なれどもよき知恵を持ちゐるなればよき実つけたり
 花咲きてそれより後が大事なりなう茄子殿と言ひて水遣る
 春の野は生れたくて生れたくてやつと生れた命にて満つ


 植物の「よき知恵」を称える素直さ、ナスに水をやりながら「のう、ナスどの」なんて話しかける茶目っ気、生命に満ちた春の野原に対する感激。この作者の明るさは、読んでいて実に気持ちがいい。
 こうした自然詠の延長線上で自らの身体を見つめたのだろうか。不思議な身体感覚を詠った歌にも惹かれた。

 身の内に飼ひゐる鳥に与ふべき水と思ひて口にふくみぬ
 生き方の殻といふものあるならん一、二度脱皮したやうな気も


 自分の体内に「鳥」がいて、それに水を与えるように水を少しずつ飲んでいるという一首目にはうっとりさせられる。二首目の、ちょっととぼけた味わいもおかしい。下の句には笑ってしまうのだが、「生き方の殻」を脱皮せずに終わってしまうことを思えば、どんどん脱皮した方がいいのだ、たぶん。
 こうした愉快で繊細な感覚は、さらに深まってゆく。

 身の裡の水位腰まで下れりと思ふ胸から腹がさみしい
 肉体は眠つてゐるが眠らない何かがあつてたましひと呼ぶ

 
 どちらも、読んだ瞬間に「ああ、本当に」と共感する。どうして、そのことに今まで気づかなかったんだろう、とさえ思う。「胸から腹」にかけて在る空間には、「鳥」がいるのかもしれない。そして、「眠らない何か」の何とさみしいことか。一人ひとりの中に決して眠らないものがいて、一晩中しんと目を覚ましているのだ。
 さまざまな詠みぶりの歌があり、とても楽しんで読んだ一冊である。

 ☆馬場昭徳歌集『マイルストーン』(角川書店、2009年11月)

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2009年09月25日

浦河奈々さんの歌集

『マトリョーシカ』

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 誰もが何かしら不安や所在なさといったものを抱えつつ、それに気づかぬふりをして日々をやり過ごしている。けれども、この歌集の作者はじっと凝視する。なかなかできないことである。

  白孔雀も月下美人も生きるとは展くことなり吾はくるしゑ
  ああマトリョーシカ開ければ無上なる怖さ 人より出でてまた人
  となる

 美しい羽を広げる白孔雀や見事な花を開く月下美人を眺めていると、「展くこと」を強いられるようだと作者は感じる。心をひらくことは、コンディションによっては本当に苦しくてつらい。じいっと閉じこもること、自分を守るにはそれが一番なのに、ひらかなければならないのだろうか……。
 そんな作者は、ロシアの入れ子人形マトリョーシカに恐怖感を抱く。開けても開けても、そこから「人」が出てくるとは、何て怖いのだろう。下の句は、分娩を連想させる。人が人を産む――それは、太古から繰り返されてきた営みであるが、作者からは遠い。

  成熟したる個体は卵もつといふこの世の一番ちひさな魚も
  わたくしの芯に湧きくる濃き痛み 母なる雉と卵おもへば
  母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱き
  しむ
  どうぶつは飼はない。天井に届くほど巨きくなつた植物と棲む

 歌集には、母になることのない欠損感、痛みが繰り返し詠われる。一首目には、メダカのような小さな小さな魚であっても成体は卵をもつのに、いまだ産んでいない私は成熟しているといえるのだろうか、という疑問が込められているようだ。二首目では、抱卵の季節に見かけたキジに胸が疼く作者である。三首目を読み、私はフェルメールの絵を思い出した。リュートという優美な古楽器は、母性の代わりに作者が見つけた詩歌の喩だろうか。「抱く」ではなく「抱きしむ」というのが哀切だ。
 四首目の詠いぶりは、前の三首とだいぶ異なる。動物を飼うくらいなら、巨大化した植物と暮らすのがいい、という強がりが詠われているのだ。具体的な植物名がないこと、また「天井に届くほど」という誇張から、宣言にも似たこの一首に奇妙なテイストを感じる。ここに見える作者特有の太い芯こそ、彼女の真価である。

  明日の米研ぎをるわれの指は今、田んぼのどぢやうのやうに生
  きをり
  スマトラオホコンニャクの巨きな巨きなスカートよ怨恨すべて吐
  き出したまへ
  腐つたおのれ肥やしにすれば後半生生きのびられるか山毛欅
  (ぶな)よ教へて

 大きな不安や怯えを抱えながらも、この作者は自らの醜い部分と向き合う強さを持っている。ひどく繊細な感覚を持て余しつつ、何かぬめぬめした「どぢやう」のような自分、また、「怨恨」のような感情や「腐つたおのれ」をもひたと見つめる強さに、圧倒される思いである。

  猫柳そろりとコップに根を出しぬ なんぼなんでもここでは死ね
  んわ
  ほんたうに良いといはるる花みればふしぎなれども自己主張なし
  ごみ出しは象のこころにどすどすと行くべし(自分を捨てないや
  うに)

 居直ったような猫柳のせりふは、作者自身の声と重なるのだろう。可笑しみにあふれていながら凄味がある。誰にでも好まれる花の面白みのなさを述べたり、ネズミのようにおどおどしているくせに「象のこころにどすどすと」歩いたりする作者の心の計りがたさ。この人は本当に面白い。詠う対象との距離や向き合い方が実に独特だ。繊くて弱々しい葉をそよがせながら、地に根をみっしりと張り巡らせる植物のような勁さ、といえばよいだろうか。読んでいると心を揺さぶられ、泣きたいような笑いたいような、何ともいえない気持ちになってしまう歌集である。

 ☆浦河奈々歌集『マトリョーシカ』(短歌研究社・2009年9月、2625円)


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2008年11月07日

細溝洋子さんの歌集

『コントラバス』

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 この作者は、水の人である。身体の中にいつも水がたゆたっている。だから、揺れる。だから、やさしい。

  終日を一枚の湖(うみ)持ち歩く流れ出す場所あらぬ湖
  テーブルに私がこぼれそうな日は少し深めの器に入る


 一首目は「一枚の湖」というハンカチのような見立てに魅了される。二首目は、「少し深めの器」という、具体的な言葉なのに何のことかわからない不思議さがいい。厚手で深い器の底に、膝を抱えて坐り込んでいる人の姿が見えて、胸がきゅんとする。
 水は方円の器に随う、という言葉のように、この作者は名前によって姿や中身が変わってしまうようだ。

  筆名を持たばあるいはわたくしに響くコントラバスの低音
  自分の名前だんだん好きになることは何かが細くなってゆくこと
  アンケートまた頼まれて名前なき私がえがくいびつなる円


 「筆名」を持てば、まるで別の人になれるのではないか、と思うことが誰にもあるだろう。その具体性を作者は「コントラバスの低音」と表現した。今の自分よりもっと優しくて強い人、もっと受容力のある人……そんなイメージが伝わってくる。深い内省のある、いい歌だ。二首目の「自分の名前」は、少し難しい。自分の名前には愛着があるものだが、「あんまり好きになると、その名に縛られてしまう」という意味だろうか。名前の持つ呪術性というものを思い出させる歌である。三首目は都会に暮らす人の匿名性の歌と読んだ。設問に対して、いくつか丸をつけたところで、何だかひねこびたような丸だな、と悲しくなった作者のようだ。
 こんなにも繊細な表現に長けた作者だが、時にびっくりするような歌が出てくる。それが楽しい。

  俺という一人称を持たざれば伝えきれない奔流のある
  銀行のカラーボールを投げつける相手考えているつれづれに
  質問と答えがふいに入れ替わる きつねが角を曲がって行った


 「俺」と言わないままの一生かと思うと、私も何だか損をしたような気持ちになる。「おれ」と言った途端に、何だか自信に満ちた、そして荒々しい感情が流れてくるかもしれないのに。二首目も驚かされる。銀行強盗にぶつけるための「カラーボール」について、こんな空想をする人がいるとは知らなかった。ちょっと怖くて愉快な一首である。三首目は、また違った味わいだ。あるとき、ふっと日が翳ったときのように、何かが からん と入れ替わる瞬間をうまく捉えた。たぶん、安房直子の童話などが好きな人ではないかしら、と想像した。

  覚め際の夢はこちらにはみ出して端を掴んだままの一日
  和ダンスのもう何年も触れぬ場所このまま老いてゆく闇がある
  鳥の群れいっせいに向きを変えるとき裏返さるる一枚の空


 巧みに作られた歌の数々に魅了されつつ読んだ。「覚め際の夢」にまとわりつく悲しみ、ひっそりと和ダンスの奥にしまわれた「闇」を、読者はありありと感じとる。
 そして、三首目のこの的確で美しい表現! 黒く見える鳥の群れが向きを変えた瞬間、白い鳥の群れに変わる、あの瞬間について長らく「うーん、何とか歌にしたいのお」と考えていた私にとって、脱帽、感服の一首である。

☆細溝洋子歌集『コントラバス』(本阿弥書店、2008年10月、税別2600円)
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2008年10月17日

尾ア朗子さんの歌集

『蝉観音』

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 傷つきやすさや弱さを抱えつつも、一人で強く生きようと頑張っている人が好きだ。この歌集に登場する女性像は実にひたむきで、いとおしくて、私は何度も涙ぐんだ。

  三年間鳴らずのぽつぺん吹きましたな泣きそ泣きそまだ意地を    はる
  わが荷物はこびだされて新しき床見えきゆつと何かが泣いた
  うららかな春に戸籍をつくりたり筆頭者われに続くものなし


 十数年前に離婚したとき、私は離婚の歌をほとんど作ることができなかった。一所懸命、別のことばかり歌にしていた覚えがある。だから、この歌集のかくも健気な離婚の歌を読み、まるで自分の歌のように思ってしまった。
 北原白秋の「春の鳥な泣きそ泣きそあかあかと」の本歌取りと、「鳴らずのぽつぺん」という巧みな見立てを合わせた一首目は、まことに哀切である。「泣くな泣くな」と自らに言い聞かせつつ、意地を張っている可愛げのない自分を客観的に見つめる理性がいい。二首目でもこの人は、「何か」が泣いているのであって自分ではない、と意固地である。
 三首目は、経験のない人にはわかりにくいかもしれない。離婚して元の姓を選ぶ際、親の戸籍に戻るか新たな戸籍をつくるか、どちらかなのである。筆頭者になるのは気持ちのよいものでもあるけれど、「うららかな春」に決意を新たにする寂しさが切ない。

  ウエストを締めてヒールを履いて来しわれを見あぐる足裏のうを    の目
  少子化のアンケートわれを名指しして産まぬ理由を四択に問ふ
  購ひきし薔薇はしほしほ首を垂れ謝るばかりの女はいやだ


 女が働くということは、いろいろと無理をするということである。一首目の「うをの目」は無理を重ねた結果であり、自分に問いかけてくる存在のようにも思える。二首目は、「これって私を責めてるの?」と思いたくなるようなアンケートの設問を揶揄した歌だ。共感する人も多いに違いない。三首目の「謝る」は、職場の場面ととっても恋の場面ととってもいいと思う。私も惚れた相手には弱くて、つい謝ってばかりいたが、多分それは男にとっても愉快ではないのだ。

 何もいはず君を背より抱いてゐるつめたい寒天培地のわたし
 満たされてゐるのは百合の花瓶ですわたしではなく花瓶なのです
 夕雲が夜に溶けゆくさまを見つ あああなたとは暮らせないけど


 一首目は、文句なしに名歌である。平明な言葉を重ね、下の句でいきなり硬い「寒天培地」を持ってきたセンスが素晴らしい。結婚も子どもも生み出さない恋をしている自分、それが「つめたい寒天培地」なのだ。満たされぬ思いを屈折させて詠った二首目も痛々しい。三首目は、恋の不毛さに焦燥感を抱きつつも感情の昂ぶりを抑えられない下の句が魅力的である。
 こんなふうに胸に迫る恋の歌が多いのだが、丁寧な観察眼に基づく描写や機知に富む詠いぶりもうまい。

 冷凍庫に冬の氷はやせほそり水に戻せばぱちりとなきぬ
 六本木ヒルズは帆柱(マスト)この街はすでにあやふき方舟である
 さびしきもの常ささくれのある指と清少納言が言ふたか知らず
 一丁のとうふ揺らして二人鍋すこしく母の食ほそりたり


 どの歌も完成度が高い。何度読んでも快い。この作者が、さまざまな物や人に対して誠実に心を傾けて生きていることが感じられる。
 分厚い悲しみのようなものにあふれた歌集だが、読後感はさわやかである。新たな一歩を踏み出そうとする作者の立ち姿は、力強くて美しい。

 ☆尾ア朗子歌集『蝉観音』(ながらみ書房・2008年9月、2625円)


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2008年09月12日

澤村斉美さんの歌集

『夏鴉』

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 若い人の歌集はいい。どんな歌でも、その時のその人にしか作れないものなのだが、中でも青春歌はまぶしい輝きを放つ。
 この歌集の作者は二十九歳である。若さならではの倦怠や孤独が繊細な感覚で詠われていて、胸がきゅんとなる。

  ミントガム切符のやうに渡されて手の暗がりに握るぎんいろ
  あの夏のわれの自画像きんいろをひとすぢ捌(は)きし鼻梁が
   光る
  深い深い倦怠感のプールへと投げる花束浮いたではないか


 一首目の「ミントガム」の何とさわやかで悲しいことだろう。どこかへ行きたいと願いながら行けないでいる若い恋人たちのもどかしさが、「切符のやうに渡されて」という巧みな喩によって表現されている。「手の暗がり」「ぎんいろ」という言葉選びもうまい。
 二首目は、「自画像」が抽象的でなくて、本当に絵筆の動きや絵の色調を思わせるところが魅力的だ。「きんいろ」も効果的だが、「ひとすぢ」によって自画像がくっきりと浮かんでくる。
 三首目は、若い作者がすでに独自の文体をもっていることを見せる一首である。花束をプールへ投げるという、若々しくも自虐的な行為を見せるにとどまらず、「浮いたではないか」と思いがけない結句で締めくくる諧謔味がいい。
 こうした、いかにも「青春」という歌もいいが、この作者は未来を先取りするまなざしを持っていて、それが奇妙な味わいを出している。

  何年かさきの私に借りてゐるお金で土佐派の図版を購(か)ひぬ
  喪主として立つ日のあらむ弟と一つの皿にいちごを分ける


 一首目は「何年かさきの私に借りて」という捉え方が面白い。また「お金」という言葉に注目した。あまり歌には出てこない言葉だと思うのだ。歌集の中には「減りやすき体力とお金まづお金身体検査のごとく記録す」「人のために使ふことなしひと月を流れていきしお金を思ふ」という歌もある。この作者が「お金」というものを大切に考え、自分の分に合った生活をしようとしていることが伝わってきて、私はたいそう感激した。自立だ、男女平等だ、などと言う前に、こういう感覚をもつことが大切なのだ、たぶん。
 二首目では、姉弟でおやつを食べているとき、ふと親の死のことなど思った作者が詠われている。近しい者との距離感が奇妙な生々しさで表現されている。

  くづれては隆起する水の微かなるむらさき色を感情と云ふ
  まばたきは人を隔てると知りながら霧雨払うやうにまばたく
  打ち鳴らすこれはさびしさ朝顔の葉を打つ雨の音に似てゐる


 若さは傷つきやすいものであり、作者もたいへん繊細な感覚をもっている人だ。「水」「まばたき」「雨の音」という微細なものを捉えたこの三首は、どれも巧緻に作られているが、言葉だけではなく作者の深いところから出てきた表現だと感じる。
 しかし、繊細なだけでないのが、この作者の魅力である。

  日の当たる場所には鍋が伏せられて私がうづくまつてゐるやうだ
  ああしぶとい暑さはわれの中にあり朝顔開ききるまでの朝


 一首目の「鍋」、二首目の「しぶとい暑さ」に自分を重ねるところに、作者の芯の太さのようなものを感じた。若さゆえの迷いや倦怠感、悩みは尽きないが、きっと乗り越えてゆくであろう作者を思い、読んでいて何か励まされるような気持ちになった。
 就職、結婚の歌は、この歌集には収められていない。次の歌集で、彼女はどんなふうに新しい変化を見せてくれるのだろう。今から楽しみでならない。

 ☆澤村斉美歌集『夏鴉』(砂子屋書房・2008年8月、3150円)


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2008年08月22日

小黒世茂さんの歌集

『雨たたす村落』

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 読んでいると、鬱蒼と茂った山の中を歩いているような気分になる。それもそのはず、作者は熊野の山や川に「いつも呼ばれる」という人なのだ。ちょっと怖かったり、わくわくしたり、ともかく楽しい歌集である。

  地図になき瀧を求めて源流へなんの瘴気か背骨が冷える
  綿飴かい うんにや、ひとだま 石垣をふはり越ゆるはほんに
美味さう
  榁(むろ)の木の根方の洞にするすると皮膚脱ぐ娘 のぞくな
のぞくな


 地図にも載っていないような滝を探す一首目は、下の句まで読んだ途端にぞくぞくさせられる。滝は聖なるものだから、心得のない者が軽々に山へ踏み入ってはいけないのだ。でもこの作者は大丈夫、二首目の「ひとだま」を「ほんに美味さう」と言っている存在の声が聞こえるほどの人だから。安珍・清姫伝説の熊野で、「するすると皮膚脱ぐ娘」をリアルに見せる三首目も見事である。「のぞくなのぞくな」が効いている。

  気弱なる鬼いつぴきに酒呑ませ弓張り月を待つ長夜かな
  夜気ふかきももひろちひろの岩かげに蟹どもそろそろ手脚動
かす


 作者は闇を知っている人だと思う。自然の濃い闇を知るということは、たぶん人の抱える孤独の闇も知ることにつながるのではないだろうか。「弓張り月を待つ長夜」も「ももひろちひろの岩かげ」も、触れればねっとりとしているような闇であろう。この二首のように、作者の詠いぶりはまことにのびのびとしていて韻律がよい。

  とりかへしのつかぬ晴天 籤引きでおまへミミズに生れて来しか
  糸とんぼ返し縫ひして沼しづかこの遊星にふはりと立てば
  今日われはヒト科ほどかれ三輪山へ香(かぐ)の木の実の種お
とす鳥


 小動物に向けられる作者のまなざしは、とてもあたたかい。そして、それは高いところからのまなざしではない。たまたま人間に生まれてきた自分と、この小さな生きものたちと何の違いがあろうか、という思いが感じられる。乾いた土の上で苦しむミミズは、ひょっとしたら自分だったかもしれないし、ヒト科であることをほどかれたら、空を飛びながらぷりっと糞を落とす鳥になれるのだ。二首目の「返し縫ひ」という比喩は、糸とんぼの「糸」から導き出されたものだが、本当に美しい。
 澄んだ空気に満ちた熊野を、たっぷりと味わえる一冊。大きな自然に抱かれるような幸福感と共に読み終えた。

 ☆小黒世茂歌集『雨たたす村落』(ながらみ書房・2008年8月、2730円)


 ☆お知らせ  「短歌研究」9月号に、「クアトロ・ラガッツィ」30首が掲載されています。
敬愛する若桑みどりさんへ捧げるつもりでつくった連作です。

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2008年08月08日

関口ひろみさんの歌集


『ふたり』


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 愛の歌ばかりなのに、さみしい気持ちがあふれてくる。愛って何だろう、と切なくなってしまう。作者は夫婦という形についてとことん見つめ、こまやかな表現で「ふたり」の日常を詠っている。それは、人がどうしようもなく「ひとり」であるというところから始まっているのだ。

  あひ寄りて暮らすは井戸を掘るごとし言葉届かぬふかき水脈
  まつさらなわれに還りてきみと心かよはせたきよ婚七年目
  きみのやさしさは知のやさしさと思ふとき樹を抱くごとくかそか
 淋しも


 「あひ寄りて暮らす」とは、結婚生活のことである。最も近しい存在として寝食を共にするのに、なお言葉が届かないことが多々ある。その深いかなしみは、恐らくたいていの人がひそかに抱いているものではないか。けれども作者は、そのことに絶望しているのではない。水脈を探り当てようと、何年も何十年もかけ、誠意をこめて掘ってゆけばいいのだ。それくらいの忍耐と努力がなくて、どうして人ひとり愛することができよう。
 「まつさらなわれに還りて」も、多くの人の共感を得るに違いない。恋に夢中だった頃、自分はあんなにも小さなことで喜び、あんなにもあたたかな心持ちで毎日を過ごしていたのに! いつの間に、こんなふうに図々しくなってしまったんだろう……。
 「きみのやさしさ」は、もっと個別な愛が詠われている。作者の夫は、理知的な人なのだろう。妻である作者の欠点や弱さも冷静に見て、夫たる自分というものの責任や役割をわきまえ、「知のやさしさ」から逸脱することがない。作者はそれに対して心から感謝しつつ、少し淋しい。「知」ではなく、もっとわけの分からない、ぼおっとした、ぬくとさが欲しいのではないだろうか。

  ときにわれふかく畏れつ声あげて怒ることなき夫の冷静
  畏怖とふ言葉口ついて出づ主治医より夫のイメージを尋ねら
 れて
  わが痛み夫も共有してゐると主治医が言へばふいにさしぐむ


 作者はとても繊細な人で、摂食障害に苦しんだ後、精神的な原因で身体のあちこちが鋭く痛む疼痛性障害を患っている。難治性の痛みに苦しんで何回となく入院し、治療やカウンセリングを受ける日々が詠われているが、私は異性を恐れるという感情に、何ともいえない共感を覚えた。男の突然の不機嫌だとか怒りの感情には実に理解不能なものが潜んでいて、思いがけなく遭遇するとわれ知らず萎縮してしまう。それは、親しい人ばかりでなく、駅のホームで酔漢同士のけんかなどを見かけた場合でも同じで、ものすごく怯えてしまう。怒声を聞くだけでもイヤなのだ。
 深く愛する夫であっても、自分のどこかに彼を恐れる感情が潜んでいること、それを直視するのは作者にとってつらい事実だったに違いない。三首目で、主治医から「ご主人もあなたの痛みを共有しているんですよ」と言われ、不意に涙ぐんでしまった作者だが、そこには安堵や悔恨などが複雑に絡み合った感情があったと思う。

  植物系と動物系とがひとにあり植物系のひとが好きなり
  たましひはどこか遠くを旅してるここにゐるのはただの留守番
  手仕事はなにか祈りに似てゐたりこころの井戸をしんしんと
  降(お)る


 淡彩画のような歌がたくさん並んでいて、読むほどに心が穏やかになる。「自分は植物系かなあ、動物系かなあ」なんて考えたり、手を動かしながら遠く心を遊ばせる幸いを思ったりして楽しんだ。作者十年ぶりの第二歌集は、着実な歩みと滋味を感じさせる一冊となっている。

 ☆関口ひろみ歌集『ふたり』(青磁社・2008年8月、税別2700円)

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2008年05月30日

高村典子さんの歌集

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 ことばの本質について、深く考えさせる歌集である。脳と心、ことばと心という問題を思い、何度となく立ち止まるような気持ちで読み進んだ。

  「月」と言つてごらんと病窓に丸きもの母は教へる四十歳(しじふ)  のわれに
  失くしたる文語文法ふたたびを暗記してゆく夕べ かなかな


 作者は、40歳のときにクモ膜下出血で倒れ、言葉を失った。そのときは自分の名前も言えず、月や林檎といった日常の言葉も、ほとんど分からなくなったという。愛唱していた短歌も、自分の作った歌も忘れてしまった。
 一首目は、窓から見える月を指して、作者の母親が幼い子どもに言うように「あれは月よ。つき、って言ってごらん」とやさしく語りかけた場面である。立派な大人である自分がそんなことを言われている状況も悲しいが、母はそれ以上に切ないだろうと、この作者は胸がいっぱいになっているようだ。
 二首目は、忘れてしまった文語文法をまた学び直している夕方の、もの悲しい気分が詠われている。詠嘆を表す終助詞「かな」を重ねることで、「かな」の用法を覚えようと口ずさんでいるような、「カナカナ」という蜩のさみしそうな鳴き声のような不思議な感じが出ている。「失くした」ものは文語文法だけではなかったはずである。治療や闘病に費やした時間や、屈託なく過ごしていた頃の時間を思う作者の悲しみが、せつせつと伝わってくる。

 ことばよりこころがよかつた失くすなら束ねゐるクリップが言へぬ  真夜中
 たましひの頼りなきころ我が名さへ言へざりしこと忘れがたしも
 湿り気を持てる日本語「うちみづ」と言へばベランダに涼風生(あ)  れる


 私は失語症というものをよく知らなかった。外傷や脳血管障害によって言語能力が失われ、訓練次第である程度は回復するものだ、というくらいの理解しかしていなかった。その回復は、肢がマヒして歩けなくなった人が再び歩けるようになるようなものだろうと思っていた。しかし、神経内科医を取材して初めて、失語症がどんなに大変な病気であるか知ったのである。
 専門医によると、いったん失われた母語を獲得するのは、外国語を学ぶようなものだという。穏やかな面立ちの医師から「あなたが海外で英語のスピーチをすることを想像してごらんなさい。気持ちの細かいひだや心の奥底まで表現できず、もどかしくて苛立つでしょう? 失語症の人は、日々そうした苦しみを抱えているんです」と言われ、心底驚いた。
 何ということだろう。高村典子さんが短歌を作るのは、例えてみれば私が英語でソネットを作るような営みなのだ。彼女の生活は、これから先ずっと外国語を用いて暮らすような日々なのだ。倒れてから5年、彼女がどれほどつらいリハビリを重ねて歌をまた作り始めたのか、と思うと胸が痛む。
 「ことばよりこころがよかつた失くすなら」「たましひの頼りなきころ」の哀しみ、所在なさには、読む方も悲しくなってしまう。しかし三首目には、「うちみづ」という言葉に、初めて出合う喜びがあふれている。その響きに湿度やかすかな涼しさを感じる感性は、もともと作者に備わっていた優れた資質にほかならない。

幾千のこころとふもの詰めこみてポストの中は吹雪きてをらむ
モーツアルトはモーツアルトらしく弾くされど正攻法といふつまらなさ
私といふ本に目次はありません好きな所からお読みください


 この歌集は闘病記のようなものではない。作者は時にきっぱりとした顔を見せるかと思えば、おどけた顔も見せ、詠いぶりは自在である。思いがけない魅力的な喩や、口語と文語を使い分けた文体も見事であり、ことばという美しい贈りものを存分に楽しめる一冊となっている。

 ☆高村典子『わらふ樹』(角川書店・2008年5月)

posted by まつむらゆりこ at 08:00| Comment(13) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

加藤治郎さんの歌集

KICX1792.JPG

『雨の日の回顧展』

 日常の風景が不意に歪み、何かがどろりと流れ出しそうな、そんな奇妙な感覚を味わう歌集。加藤さんの歌を読むと、いつも不思議な空間へ連れてゆかれるようで、ちょっぴり怖い。

 ふれたなら幼い耳であるようにとれそうなノブ、ふれたのだろう
 ひるすぎのひとりの部屋にテーブルの水面をめくるかなしみながら
 器から器に移す卵黄のたわむたまゆらふかくたのしむ


 ドアノブの変哲のない形と子どもの耳を重ねた一首目は、金属の冷たさと耳のやわらかさが奇妙に交じり合う感覚にぞっとする。二首目は、平らなテーブルの表面を水面に見たて、あろうことか本当にめくってしまう作者の魔術師めいた手つきに魅了される。三首目は、つやつやとした卵黄がその弾力を誇るかのようにたわむ瞬間を、高速度カメラでとらえたような作品である。下の句のやわらかく、なめらかな韻律にうっとりさせられる。
 この歌集では、ロダンやカミーユ・クローデルなど芸術作品をモチーフにした歌が多く、これまでにない世界の広がりを感じた。
 私が特に好きなのは、ゴッホを取り上げた歌が中心となる「黄色い家」という一連である。

  農婦はも胎児のごときパン生地を竈の中に差し入れにけり
  葡萄パン百の眼窩のくらぐらと療養院のゴッホの書簡


KICX1788.JPG

 一首目には、冒頭のドアノブの歌に似た怖さがある。やわやわとしたパン生地は、パン生地のように見えるけれど本当にそうなのだろうか? かまどの中で焼いてしまっていいのだろうか……グリム童話の原型を思わせるような暗さが湛えられている。
 二首目は、「おお、ここにも葡萄パンの名歌が!」とわくわくしてしまった。干し葡萄の黒さに眼窩を思い、さらに、晩年のゴッホが療養院から弟テオに宛てて送った書簡の、ちまちまとした筆跡を連想した作品、と読んだ。この重層的なイメージは全く素晴らしい。精神を病みながら最後まで絵を描くことをやめなかったゴッホ、何もかも見逃すまいと見つめ続けたその目、眼窩が思われ、悲しみが迫ってくる。

  泣き叫ぶ線を見て居り糸杉のようにあなたは顔を歪めて
  向日葵が裸のままで逃げてゆくナパーム弾の炎のなかを
  

 「糸杉」の一首目は、めらめらと描かれた糸杉に画家の苦悩を見る作者の感覚が詠われている。「あなた」は、ゴッホその人ととってもよいし、作者と一緒にゴッホの絵を見ている恋人という解釈も成り立つと思う。描かれた作品に気持ちを同調させ、思わず美しい顔を歪める繊細な恋人、という設定は味わい深いのではないか。
 「向日葵」の歌も、非常に優れた作品である。この歌を読んだ人はきっと、ベトナム戦争中、ナパーム弾で衣服を焼かれ、裸のまま空爆から逃げている少女の写真を思い出すに違いない。AP通信のカメラマンによって撮影された少女は、皮膚移植手術を受けた後、数奇な運命をたどるが、彼女のその後についてはデニス・チョン『ベトナムの少女』(文春文庫)に詳しい。
 あの有名な写真の少女を「向日葵」と重ねたところが、秀逸としか言いようがない。苦しみつつ力強い筆づかいによって向日葵を描いたゴッホと、悲惨な目に遭いながらも生き延びた少女の生命力。少女の姿は、何度となく侵攻されたベトナムという国そのものの勁さをも思わせる。私たちの心を強く揺さぶる二つの事柄が、時空を超え、たった三十一文字に表現されているのは、本当に見事である。

☆加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(短歌研究社・2008年5月出版・3150円)
posted by まつむらゆりこ at 00:17| Comment(7) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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