2014年01月19日

夜が明けるまで

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ゆるやかな好きに支配された部屋で夜が明けるまでジェンガをしよう
                                田中ましろ


 ジェンガとは、同じ大きさの直方体をタワー状に積み上げ、一つずつ抜いてゆくゲームである。全体のバランスを見ながら代わりばんこに抜くのは、なかなかにスリリングで、わが家に遊びに来る子どもたちにも人気がある。
 この歌では、何といっても「ジェンガ」が効いている。恋の危うさと、刻々とバランスを崩してゆくジェンガのタワーの危うさが絡み合い、胸がきゅんとなる。「ゆるやかな好き」というのは、読む人によって解釈が分かれると思うが、私はまだ「好きだ」と伝え合っていない状態の二人だと思う。伝えてはいないけれども、好意以上の感情を抱いていることを互いに何となく意識しており、だからこそ「夜が明けるまで」なんていうアブナい時間帯を作者は期待するのだ。
 この作者は、恋の歌の名手で、昨秋刊行された歌集には心をふるわせる作品がたくさん収められている。

  ひとすじの雨になりたいまっすぐにあなたに落ちていくためだけの
  せかいって言えばなんだか広すぎてあなたと言えば輝きすぎる
  君のこともう考えちゃいけないと一日ずっと考えていた


 どの歌も素敵だ。こんな歌を贈られたら、世界の果てまでついていってしまうだろう。けっこう恋の感情としては熱いのだが、その熱を感じさせない表現が巧い。目立つ言葉や強い言葉は一つもなく、並々ならぬセンスと計算に基づく文体だと思う。なんと瑞々しい情感があふれていることだろう。
 いや、もう最近、やさしい恋の歌にやられっ放しなのである。なぜだろう。もう恋はできないというステージに来てしまったからなのか、エネルギーレベルが落ちてきているからか……ともあれ、わが家のジェンガを見るたびに、どきどきしてしまうのであった。

   ☆田中ましろ『かたすみさがし』(書肆侃侃房・2013年9月刊)
posted by まつむらゆりこ at 14:33| Comment(3) | TrackBack(0) | せつなくも美しい恋の歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月04日

嶋田さくらこさんの歌集

『やさしいぴあの』

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 ぴあのぴあのいつもうれしい音がするようにわたしを鳴らしてほしい

 読むたびに胸がいっぱいになり、やわらかな気持ちにさせられる。これまでに出会った歌の中でベスト10に入るくらい大好きだ。
 そもそも歌集のタイトル『やさしいぴあの』に魅了される。ピアノは私にとって特別な楽器であり、大切な友達だから。きっと作者もピアノが大好きなのだろう、と思う。
 弾く人が違えば、同じ楽器でも違う音がする。自分の気分によってもタッチは変わる。「うれしい音」がするのは、弾く人がピアノのことが好きだからであり、その人に弾かれる「わたし」もそれに応えようとして、よい音を響かせる――ああ、こんな解説をするのは実に野暮なことだ。この歌の弾むような思いの美しさ、楽しさを愛の至福と言わずに何と言おう。
 初めてこの歌を読んだとき、涙ぐんでしまった。気持ちがとても落ち込んでいる時期だったからだ。「やさしく弾いてくれれば、私もやさしい音を出すのに。私だっていつも『うれしい音』を出したいのに。なのに、なのに……」と恨めしい思いも味わいながら、この歌のひたむきな明るさにうっとりさせられていた。

  おとうふの幸せそうなやわらかさ あなたを好きなわたしのような

 大好きな二首目。恋をしていたころの自分の気持ちがよみがえる。下の句のまっすぐさがいい。共に暮らすようになると、どうしても「あなたを好きなわたし」が時々どこかへ行ってしまう。けれども、心の底にはちゃんと「あなたを好きなわたし」がいて、「あなたなんか『大っ嫌い!』と思うわたし」を悲しんでいるのだ。
 スーパーに行くたびに、この歌を思い出す。島豆腐はけっこう丈夫で、ふるふるとした絹ごし豆腐のようなやわらかさではないけれど、滋味を感じさせるたまご色をしている。

  つぶやきは真夜中の雪 ささやきは暁の雨 春になりたい
  にんじんの皮は剝かずに切り刻むその断面が春になるまで
  サンダルを脱いで走った砂浜の夜までたどり着けますように


 詩のある日々の美しさ。人は生きてゆくうえで詩を必要とすること。そんなことを改めて思わされた。この歌集をひらくたびに、私はしあわせになる。

  行くことのない島の名はうつくしい 忘れられない人の名前も
  シェリー酒がどこの国からきたかとかそんな話題がいいね、深夜は
  本棚でぼんやりしてる楽譜から「レ」と「ラ」を抜いてエイサー踊ろう


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 歌集の章のタイトルも洒落ている。T章は「手のひらが小さいひとのためのエチュード」、U章は「L’ensemble des dissonances」(不協和音のアンサンブル)、V章は「ドルチェ、モルト・エスプレッシーヴォ。」。
 T章の冒頭に置かれたロベルト・シューマンの言葉を胸に、今年はピアノを弾こうと思う。「やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。ひく時には、誰がきいていようと気にしないこと」
 ピアノを弾くことと人を愛することは、たぶん似ている。やさしい曲――日常、をおろそかにしてはいけない。

   ☆嶋田さくらこ『やさしいぴあの』(書肆侃侃房、2013年11月)
posted by まつむらゆりこ at 15:30| Comment(6) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

『お嬢さん』のお披露目

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 ここ数年かけて書いてきた原稿が、やっと本の形になった。
 長い間ブログを書くことをやめていたのは、心の余裕がなかったからだ。本当に有能で忙しい人は決して「忙しい」と言わないものだというけれど、確かにそういう面はある。この半年余りの私の頭の中は飛行機といろいろな人物でいっぱいで、その状態を「忙しい」と称して、サボったり断ったりする言いわけにしていた。
 ともあれ、拙著『お嬢さん、空を飛ぶ』(NTT出版)が刊行されて、ほっとしている。ウェブマガジンの連載時には「女もすなる飛行機」というタイトルで、自分としてはややお茶目で悪くないと思っていたのだが、数人からNGが出たので一所懸命考えた(思い返せば、新聞記者時代も連載企画のタイトルを決めるのが苦手だった!)。
「大空を目指して」だとか「ひこうき雲の描いた夢」だとか、「なんだかなぁ〜」的なものしか思いつかなかったのだが、あるとき天啓のようにひらめいたのが「お嬢さん〜」であった。モンゴメリの『パットお嬢さん』や犬養道子の『お嬢さん放浪記』など、ちょっぴり古めかしく懐かしい響きがあるのがいいと思った。何より、この本に登場するキャサリン・スティンソンという女性パイロットが、大正時代に来日した折に「スチンソン嬢」「ス嬢」と親しまれていたのである。
 私にとって大切な『お嬢さん〜』が、たくさんの人に愛されますように。

 拙著についての概要はこちら。
 http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002283
posted by まつむらゆりこ at 08:38| Comment(14) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

慰安婦のこと

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 従軍慰安婦問題について、時々考える。90年代の前半、元慰安婦の韓国人女性が2人来日した際、私も取材したことがあった。
 インタビューはとても難しかった。デスクから「彼女たちの話を全部、本当と思うなよ」と言われて、取材に赴いたのを覚えている。国家賠償を求める韓国の団体から吹き込まれた後付けの情報、主張も交じるだろう、ということであった。そして、彼女たち自身が無意識に塗り替えた記憶もあるに違いなかった。誰だって自分が一番大切だ。思い出したくもない悲惨な出来事によって心身が傷ついたとき、そこから回復するためには、記憶の書き換えが必要なのだと思う。自分の物語を語るとき、「騙る」という要素が入るのを誰も責めることはできない。
 来日した元慰安婦の韓国人女性2人は、シンポジウムなど公的な場で非常に淀みなく語った。するすると言葉が紡ぎ出される様子に、どこからどこまでが本当の話なのか、私には分からなかった。だから、通常の新聞記事と違って、すべてをカギかっこの中に入れる形でしか書けなかった。
 そんな中で、「あ、これは彼女の本当の気持ちだ」と思う言葉があった。それは、慰霊祭のために沖縄へ旅立つ慰安婦たちと同行した際、空港の売店で韓国人スタッフが「何か飲みますか? 牛乳とか?」と声をかけた時だった。1人の元慰安婦が顔をしかめて、「牛乳は大嫌い。精液を思い出すから」と言ったのだ。通訳を通じての言葉だったが、大きな衝撃を受けた。そして、これこそ事実に違いないと思って原稿に書いた。
 昨年5月に出版された朝井さとるさんという女性の歌集を読んでいて、次の歌に出会い、とても驚いた。

  語られて書かれて残る 牛乳は飲めないあれを思ひ出すから
                        朝井さとる


 私の記事を読んだ人が、こんな形で20年近くもその痛みと衝撃を共有してくれた――そのことに感激した。もしかすると、他社の記者も記事にしていたかもしれないが、それはどちらでもよい。記録は多い方がいいに決まっている。
 フランス語のhistoire という語には、「歴史、史学」という意味のほかに、「物語、話」という意味もある。起こった事実は1つでも、その人、その国によって作られる物語は異なる。そして、それが歴史というものなのだ。他国と歴史認識を共有することの難しさを改めて思う。

  生臭き牡蠣をずるりと飲み込んで孤立無援の慰安婦思ふ
                        古川 由美


 この歌は、93年に発表されている。20代の作者は、従軍慰安婦問題に割り切れぬ思いを抱きつつ、「ずるりと飲み込ん」だ。「ずるりと」に込められた不快感、もどかしさ、嫌悪感と共に、史実に向き合うしかないのだと思う。


  *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
   古川由美 「かりん」1993年3月号
 

*拙著『物語のはじまり』はお蔭様で、残部がなくなりました。たくさんのお申し込み、どうもありがとうございました。
posted by まつむらゆりこ at 15:25| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月21日

新聞・新聞記者

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 新聞社には、合計で22年間勤めた。いまだに、歌集を読んでいても、新聞について詠った作品に「お!」と反応してしまう。

  「新聞沙汰になる」が脅しとなるかぎりまだ新聞は健在である 
                           松木 秀
  届きたるままの折り目に朝刊がゆうべの父のかたわらにあり
                           藤島 秀憲


 どちらも、この4月に出版された歌集に収められた作品。
 松木さんの歌は、新聞記者にはイタイ一首だ。そういえば、「新聞沙汰」という言葉も、あまり聞かなくなった。ネット空間での誹謗中傷の方がはるかに怖いものになったことも勿論だが、新聞の部数が減り、社会への影響力がなくなってきたことは明らかだ。この歌自体が古びて、理解されなくなる時がいずれ来る。
 藤島さんの歌は、介護が必要になった老父を詠ったものである。新聞を読む気力、好奇心がなくなった父を寂しく思う気持ちが、折り目のきれいなままの新聞に投影されていて切ない。夕暮れどきの心もとないようなさみしさが、一首全体を覆っている。
「新聞」以上に気になるのが、「新聞記者」を取り上げた歌である。

  初対面の新聞記者に聞かれおりあなたは父性をおぎなえるかと
                         俵 万智
  貯金使ひはたして逃げたと額を言へば素早くメモをとる気配あり
  なぜ避難したかと問はれ「子が大事」と答へてまた誰かを傷つけて
                         大口 玲子


 俵さんの歌は、シングルマザーとして生きることについて取材された場面だ。大口さんは、3・11後に起きた原発事故を受け、幼い子を連れ東北から九州へ移り住んだことについて取材された。
 どの歌も、まるで自分が批判されているように突き刺さってくる。「初対面」の人に対して、ぶしつけな質問をしなければならないことがある。また、どんな記事でも数字という具体性が力をもつので、数字が出た瞬間に「素早くメモをとる」のが記者としての基本なのである(嗚呼!)。三首目の作者の思いも苦しく伝わってくる。自主避難したことについて胸の中にはさまざまな思いが渦巻くのだが、それを言葉にした途端に、言葉自体が一人歩きしてしまう。「子どもが大事だったからです」と答えながらも、「それだけではないんだけど…」という思いもあっただろう。そして、何よりも作者は、自分の言葉が、避難したくてもできない人、避難しないことを選んだ人たちを傷つける可能性をよく分かっている。幼い子をもつ母親たちが、記者という第三者によって分断されてしまうことが、痛ましく思えてならない。
 これらの「取材される痛み」について読むとき、自分の記者生活を省みて、ただ深く頭を垂れるしかない。

 *松木秀『親切な郷愁』(いりの舎、2013年4月刊行)
  藤島秀憲『すずめ』(短歌研究社、2013年4月刊行)
  俵万智『プーさんの鼻』(文藝春秋、2005年11月刊行)
  大口玲子『トリサンナイタ』(角川書店、2012年6月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 21:48| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

絵本の力

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 河合蘭『卵子老化の真実』(文春新書)を読んでいて、思いがけないエピソードに出会った。
 ある女性が出産直後、赤ちゃんにダウン症の疑いがあることを告げられたとき、小学生のころに読んだ、ダウン症の男の子、トビアスの日常を描いた絵本『わたしたちのトビアス』(偕成社)のことを思い出したというのだ。「頭が真っ白になって、何も考えられなかった」状態のなか、トビアスが家族みんなに愛されていた内容がよみがえり、彼女は夫と自分の親たちに事実を告げた。「あの本と出会っていたことは、私の心を強く支えてくれたと思います」という言葉に胸が熱くなった。
 駆け出しの記者だったころ、先天性四肢障害児父母の会というグループを取材したことを思い出す。生まれながらに手足の指が欠損しているなどのハンディがある子どもたちを支える親のグループである。その会が作った絵本『さっちゃんのまほうのて』(偕成社)は、片方の手の指がない「さっちゃん」の悲しみと回復が描かれた内容で、出版されて25年で約65万部のロングセラーとなっている。
 「トビアス」や「さっちゃん」が、どれほど多くの人を励まし、支えてきたことかと思う。それは、医療情報や育児書とは全く別のメッセージである。一人ひとり違った人格を備えた子どもたちの姿は、障害の有無で括ってしまうことの愚かしさを伝えている。

  空席に誰かゐるらし駅過ぎて埋まらぬダウン症の子の右
                        早野 英彦
  自閉ちやんダウンちやんといふ呼び方に馴染めず輪から
  外れる、独り               東野登美子


 一首目は、込み合う電車の中で、皆が遠慮したようにそこだけ空席になっている状況のかなしさが詠われている。ダウン症の子は特徴的な顔だちをしているから、ひと目で分かる。「あ…」と瞬間的にその隣の席を避けてしまうのは、きっとその人がいろいろな子ども、いろいろな人に出会った経験がないからだろう。ダウン症の子にとっても、そうでない子にとっても、一緒に遊んだり勉強したりする場は大事だと思う。
 二首目の作者は、発達障害の子を育てている。同じ境遇の親たちは一番わかり合えそうだが、その集団の「おたくは自閉ちゃんなの?」などという言葉遣いにつまずき、「輪」から出てしまった孤独感が胸を打つ。
 小さな子を育てる日常がどれほど大変か、ということさえ想像できない人が大組織には少なくない。まして、いろいろな子どもがいること、どんな子どもも幸せに生きていることを、知っているか知らずにいるかの違いは大きい。多様な子どもたちが登場する絵本は、本当に豊かな世界を見せてくれる。

  *早野英彦『淡き父系に』(ながらみ書房、1995年2月刊行)
   東野登美子『豊かに生きよ』(いりの舎、2012年6月刊行)

★先日、ご紹介した拙著『物語のはじまり 短歌でつづる日常』(中央公論新社)は、まだ手元にあります。
よろしかったら、どうぞご連絡くださいませ。
posted by まつむらゆりこ at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月30日

SMILE

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 先輩というのは本当にありがたいもので、会社を辞めた後も心配して仕事をくれたりする。
 3月27日に発売された由紀さおりさんのニューアルバム「SMILE」――収められた11曲のうち、2曲の訳詞を担当したのだが、これは良き先輩の紹介が縁で実現した仕事である。あらかじめメロディーが決まっていて、それに合うよう英語の歌詞を和訳するという作業は、思いのほか楽しかった。定型に気持ちを注ぎ込む短歌と少し似ているような気もした。

真鍮のバーに凭れてきくジャズの「煙が目にしみる」 そう、しみるわ
                            松平 盟子


 「煙が目にしみる」はジャズのスタンダード・ナンバー。「SMILE」で私の訳した”You’d be so nice to come home to” 、“Moonlight Serenade” も、そうした名曲である。ぜひ日本語で歌いたいという由紀さんの思いに応えるべく頑張った。
 小学生の頃、テレビで由紀さんが「手紙」を歌うのを聞いて、「この人の日本語は何てきれいなんだろう」と感激したことを覚えている。その方と一緒に仕事ができるなんて、思ってもみなかった。一昨年、初めて由紀さんのために”My Funny Valentine”を訳す仕事が来たとき、「今でさえいろいろ原稿を抱えているのに、これ以上、手を広げてはいけないのでは……」と断りそうになったのだが、もう一人の自分が「面白そうじゃないの。あの、由紀さおりさんだよ! やってごらん」とささやいた。結果的に、それが今回のアルバムに繋がったわけである。怖いもの知らずの好奇心も、たまには必要なのかもしれない。
 「SMILE」には、子どものころに魅了された「手紙」も収められている。声の質、歌唱力の素晴らしさは言うまでもないが、日本語の発音の確かさと美しさには本当にうっとりとさせられる。お薦めの1枚である。

   *松平盟子『たまゆら草紙』(河出書房新社、1992年12月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 18:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月25日

物語のはじまり

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 人生には、いつでも初めてのことが起こる。
 先日、中央公論新社の編集者から、拙著『物語のはじまり―― 短歌でつづる日常』が絶版になることが決まったというメールが来た。会社を辞めた翌年に出した、私にとっては自費出版でない初めての本だった。愛着も深い。文庫にならないかなぁ、とひそかに願っていたが甘かった。人生初の絶版である。
 この本が出て、フリーライターとして食べてゆく、という私の新たな「物語」も始まったのだと思う。

  物語から逃れるという物語 女よ靴を脱ぎ捨てなさい

 刊行した2007年から、早くも6年がたった。私自身も少し変わったし、自分が以前に書いた文章を見て、「ほほぉ、こんなことを考えていたのか」と驚くこともある。最初の本への愛着は愛着として、新たなものをどんどん書き続けるしかない。
    *            *            *
 というわけで、この本を読んでみたいという方に格安でお分けしたいと思います(定価は1890円ですが、送料込みで1000円に)。手元にあるのは約40冊なので、先着順にします。
 『物語のはじまり』は、さまざまな現代短歌をテーマ別に鑑賞したエッセイ集です。「働く」「恋する」「育てる」「老いる」など10章で構成されています。
 ご希望の方は、このブログのコメント欄にお名前とご住所を書き入れてください。コメントとして掲載されることはありません。ご送付先をメモして削除します。
 4月初めには数日間留守にしますので、その間にご連絡いただいた方へお送りするのは、少し時間がかかるかと思いますが、ご了承ください。どうぞよろしくお願いします。

   *『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:52| Comment(5) | TrackBack(0) | エッセイ集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月15日

春はすぐそこだけど

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 あちこちでデイゴの花が咲いている。島の春である。
 しかし、内地でも激しい寒暖差のようだが、石垣島でも初夏のような陽気が続いたかと思うと、風が強く吹いて寒くなったりする。ここ数日の目まぐるしい天気の変化に、ふと思い出した一句がある。

  春はすぐそこだけどパスワードが違う      福田 若之

 1991年生まれという、若い作者である。もう少しでログインできそうなのに、またもや「パスワードが違います」というメッセージが表示されるような、もどかしさ。惚れぼれとするような若さあふれる一句である。
 この人の洗練された感覚、耳のよさには、本当に魅了される。
 私の特に偏愛する三句。

  歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて
  うららかという竪琴に似た響き
  風邪声はうをのうろこのうすみどり


 一句目は、猫好きにはたまらないテイストだろう。小さな猫がおずおずと、しかし好奇心たっぷりに歩む様子をこんなふうに達者に写実するとは! 二、三句目はあえて説明する必要はないと思われる。胸がふるえるように美しい。
 東日本大震災の直後に詠まれた一句も忘れ難い。

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 

 この切迫感、ぐんぐん押してくる感じ。「がんばろう 日本」もよいけれど、誰にでも「しあわせがどうしても要る」ことを、みんなでもう一度考えたい。

  *週刊俳句=編『俳コレ』(邑書林、2011年12月刊行
posted by まつむらゆりこ at 12:57| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月08日

こびと

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 日本の童謡というのは、少し特殊なジャンルではないかと思う。幼い子どものために作られた歌であるはずなのに、短調の曲がやたらに多い。何となく、おとなが子ども時代をなつかしんで、自分を慰藉するために作った歌のように思えてしまう。
 たとえば、「森の小人」なども、実にかなしげなメロディーが忘れがたい。「森の木かげで どんじゃらほい しゃんしゃん手拍子 足拍子」という出だしは、まずまずリズミカルなのだが、「小人さんがそろって にぎやかに」のあたり、もう泣きたくなってしまうような、ヘンな恐ろしさが漂うのだ。
 そんなことを思い出したのも、最近、子どもたちの間で『こびとづかん』というものが人気を博しており、その「こびと」たちの姿がひどく奇妙だからだ。昨今言うところの「キモカワイイ」というのだろうか。「カクレモモジリ」「ベニキノコビト」「リトルハナガシラ」……どれも、少々気味の悪い顔と姿である。子どものころ、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』シリーズや、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』は大好きだったが、このこびとたちには「う〜ん…」と腕組みしたくなる。
 しかし先日、この『こびとづかん』のキャラクターたちこそ、「森の小人」のメロディーにぴったりではないか!と気づき、「そうだ、そうだ」と一人で嬉しくなってしまったのであった。

  子の食べる一匙ごとのうれしさに茶碗蒸しにはこびとが棲むよ
                       小守 有里


 この歌の「こびと」は、「妖精」と言い換えてもよいのかもしれない。ふだんは食の細い子どもなのだろう。期待以上にぱくぱく食べてくれるのが嬉しくて、作者は茶碗蒸しに潜む「こびと」の力に感謝の念を抱く。一所懸命に子育てしている母親の姿に、ちょっと胸が熱くなったりもする一首である。
 人間よりもサイズが小さくて、不思議な力を持っていたり、独特の暮らしをしていたり――。こびとの存在を心のどこかで信じていると、いいことがありそうな気がする。

 
  *小守有里歌集『こいびと』(雁書館、2001年8月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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