2013年03月01日

向き合う

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 ご近所さんから誘われて、おひな様を見に行ってきた。木目込み人形の教室に通って、ご自分で作られたというお人形は、古風で優しげな顔立ちである。
 七段飾りをこんなふうに飾れる家も、昨今はそう多くないだろう。私の人形は、男雛と女雛一対がガラスケースに入ったものだった。母の持っていた五段の飾りと並べていた記憶がある。雛飾りではないけれど、瀬戸物の小さなティーセットなども一緒に飾った。あの雛飾りや道具類はどうなったのであろうか。
 母に訊くと、「あ、要るなら送ってあげる」などという事態を招きそうで、怖くて聞けない。それでなくとも、老い支度を着々と進め、ある日突然、私の小・中・高校の成績表をまとめて送ってきたりするので油断がならないのだ。

  並びゐし雛人形をしまふとき男雛女雛を真向かはせたり
                     田宮 朋子


 事実を淡々と詠った一首が、何か深い意味を持つように感じられることがある。この歌もそんな一つだ。ふと「私たち、ちゃんと向かい合っているだろうか……」と考えさせられてしまう。
「恋は互いに見つめ合うこと、結婚は二人で同じ方向を見つめること」というが、結婚してからだって、互いを見つめ合うことは時に必要ではないのかな、と思う。出会ったころに抱いた熱い感情を思い出したり、相手の眼に映る自分を確かめたりすることは、どれほど年月がたっても大事なことだ。
 作者自身の思いがどこにあるかは分からないが、雛人形を一つずつ丁寧にしまう仕草のやさしさが、一首全体をやわらかくしていて、読む者の心もほっこりと温かくなる。
 
*田宮朋子歌集『雛の時間』(柊書房、1999年6月刊行)
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2013年02月23日

野口英世再び

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 久々のマイブーム到来!――というわけで、野口英世関連の本を続けて読んでいる。
 たまたま古書店で手に取った『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)に始まり、『遠き落日 上・下』(渡辺淳一著、角川文庫)、そして、『野口英世は眠らない』(山本厚子著、集英社)まで読んだ。一番読み応えがあったのは、吉川英治文学賞を受賞した『遠き落日』である。渡辺淳一は伝記的小説のめっぽう巧い人で、与謝野晶子・鉄幹を追った『君も雛罌粟われも雛罌粟』、早逝した中城ふみ子の生涯を描いた『冬の花火』も優れた作品だが、野口という破滅型の学者の実像に迫った『遠き落日』は出色だ。
 浪費癖など数々の欠点にも関わらず、私が野口に惹かれるのは、2つの点においてである。
 1つは、語学のセンスに優れ、若いころにドイツ語、英語、フランス語を学んだばかりか、中国へ行くときには中国語、エクアドルへ行くときにはスペイン語、と必ず現地のことばをある程度習得して、人々の信頼を得たというところだ。山本厚子は特にこの点を高く評価し、野口を真の国際人と称える。私も同感である。渡辺淳一は、福島出身の野口が東北弁に対するコンプレックスを抱いていたことが、外国語の習得に向かわせた要因と見ているが、それだけではないように思う。
 そして、もう1つは、野口が実験の下準備を決して人まかせにせず、試験管の滅菌作業などを自分でやったということだ。『遠き落日』には、手伝いを申し出た後輩に、野口が「せっかくだが断る。俺は自分のやった仕事しか信用できないんだ」と言う場面があるが、実際に彼は何から何まで自分で行う完璧主義者だったらしい。科学研究の大半がプロジェクトチームを組んで行われるようになった現在では、そんなやり方は到底不可能だし、当時もそのことで研究仲間に嫌われたようだ。しかし、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したのは、そんなこだわりがあったからに違いない。

  試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末
                           永田 紅


 ああ、今も研究者たちは野口英世のように試験管を洗うのだな、と興味深く思う。「じゃん・ばるじゃん」という擬音がユーモラスで、作者の元気で明るい気持ちが伝わってくる。大切な実験に使う試験管を洗う心はすがすがしい。これから行う実験、それに続くデータ解析……どんな結果が出るか、今からわくわくする。同じ作者の歌に、「誰に見せる顔でもなくて自らの作業へ向けたる集中ぞよき」という一首もあるが、きっと野口英世も一心に作業しているときはよい顔をしていただろうと思う。

 *永田紅歌集『ぼんやりしているうちに』(角川書店、2007年12月刊行)
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2013年02月16日

ピアノ・レッスン

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 毎週土曜日の午後には、近所の小さな女の子が2人やってくる。ピアノのおけいこなのだ。
 私は音楽学校を出たわけでもないので、初めは「教えられない」と断ったのだが、親御さんは「ピアノが好きで、ひいてみたい気持ちがあるので、それを伸ばしてくれるだけでよい」という。責任重大だなあ、と思いつつ、譜読みができるくらいになれば…と引き受けた。
 昨春くらいから小学5年生、秋からは4歳の子も来るようになった。4歳の子はまだ音符が読めないので、鍵盤に色をつけたマークを貼って何とかバイエルを始めたところである。

  いとけなきものの小さき掌を取りて悪にみちびくごとくピアノへ
                      鳴海 宥


 私の大好きな一首。鳴海さんは音楽学校を卒業されたプロである。小さなお弟子さんにピアノを教える情景を、こんなふうに妖しげに詠ってみせた技とセンスに魅せられる。
 音楽は時に、麻薬のような「悪」になり得る。それは絵や小説も同じだろう。耽溺するくらい何かに魅了されることは必ずしも幸福ではないのだと思う。そんなことを思いつつ、昔なつかしい練習曲集や、ディズニーのキャラクターが載っている今どきの教則本を使って、毎回レッスンの真似ごとをしている。

   *鳴海 宥歌集『Barcarolle ― 舟唄』(砂子屋書房、1992年10月刊行)

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2013年02月10日

白猫の耳

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 人は、自分の見たいものしか見ない。
 先日、久しぶりに中谷宇吉郎のエッセイを再読した折、猫の話が出てきて「ふーん」と思った。何度か読んでいるのに、中谷が猫を飼っていたことはちっとも記憶に残っていなかったのである。ミミーという、その猫は、「感心におとなしい行儀の良い猫」で、ごはんをやると「いつのまにかすっかりたべてしまって、洗ったようにきれいにしてしまう」。中谷はそのことについて、「とかく猫というと御飯を残したり散らしたりして汚くしておきやすいものなのにこれはまたちょっと珍しい猫である」なんて書いている。
 科学者である中谷が飼い猫をひいきするようなことを書いているのが可笑しいが、自分がミミーのことを全く覚えていなかったことには驚く。人間は自分にとって興味のある情報しかキャッチしないのだなあ、とつくづく思う。
 情報社会になり、インターネットで膨大な情報を得ることができるようになったが、人々が万遍なくさまざまな情報を入手しているかと言えば全くそうではない。ワンクリックで興味を引いたものしか読まなければ、世界で何が起きているのか、いま最も大事な問題は何か分かるはずがない。
 紙の新聞はかさばり、資源の無駄遣いだという批判があるけれど、あの一覧性は実に優れていると思う。時に判断ミスや考え方の偏りもあるだろうが、訓練された記者たちが合議して、それぞれの記事の扱いを決めた紙面は、パッと見てその日起こったことを知ることができるものだ。ランダムに等価値として並べられたネットの見出しからニュースを選び出すよりも、はるかに効率的であり、一定の信頼がおける。
 そして、人間の脳は本当に不思議なもので、そのとき特に注意して読まなかった記事でも、後になって「ああ、そう言えば、社会面の右の下の方に出ていたなぁ」などと思い出すことがある。あるいは、ざっと紙面を斜めに見ているときに、関心をもっている言葉が目に飛び込んでくることも少なくない。「意識」は脳科学研究における重要テーマの一つだが、意識下への働きかけという点において、紙の新聞の一覧性はもっと評価されてよいと思う。

  みみうらのももいろ透けるましろ猫雨ふるまへの空をみてをり
                      日高 堯子
  風を掬ってゐるのか猫はももいろの耳をゆつくり動かしながら
                      時田 則雄


 でもって白猫の歌であるが、猫を飼うようになって、これまで私の心に入ってこなかった歌が「ん?」と気になるようになった。分かりやす過ぎる理由だ。でも、白い猫を実際に見ないと「ももいろ」という耳の色さえ分からないのである。自分の経験だけで生きていると、恐ろしく狭くて偏った世界しか知らないことになる。もっともっと本を読み、さまざまな人と出会わなければ、と思う。

   *日高堯子歌集『樹雨』(北冬舎、2003年10月刊行)
   *時田則雄歌集『オペリペリケプ百姓譚』(短歌研究社、2012年11月刊行)

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2013年02月05日

国際結婚、あるいは野口英世

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 相変わらず、締め切りの合間に全く仕事と関係ない本を読んでは、「はぁ〜、至福」とうっとりしている毎日だ。ブログ更新もサボりにサボってしまった。
 先日読んでまずまず面白かったのが、『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)である。サブタイトルは「明治・大正 偉人たちの国際結婚」で、野口のほかに、ジアスターゼやアドレナリン抽出で知られる高峰譲吉、エフェドリンの発見者である長井長義、仏教学者の鈴木大拙らのケースが紹介されている。
 何が面白いかというと、やはり彼らのなれそめというか出会いだ。今から百年ほど前の日本人男性が、どんなふうに外国人女性との愛を育んだかというところに、俗な好奇心がそそられる(この本がその意味で少々物足りないのは、一柳満喜子とW.メレル・ヴォーリズのような「日本人女性と外国人男性」のケースを取り上げていないことだ)。彼らの関係に少なからず惹かれるのは、はじめから相容れない部分があることを互いに認識し合ったところからスタートしているからである。国際結婚した友達が数人いるが、いずれも相手との違いについて「まぁ、エクアドル出身だからね〜」「アメリカ人だから仕方ないっしょ」とさばさばとあきらめている。
 本当のところ、男女というものは、そうそう簡単には分かり合えない。なのに日本人同士だと、つい「分かってくれるはず」と期待してしまう。そこに甘さがあるのだと思う。異性には異性の文化、価値観、思考方法があり、自分とは全く異なる存在なのである。

   野心だけが支えであった 精緻なる野口英世の細胞スケッチ

  男性がかなり年上であるケースが多い中、野口英世は同い年(年上という説もある)のメリーと35歳の時に結婚しており、実生活のうえでも対等な関係を築いたようだ。浪費癖があり毀誉褒貶相半ばする野口だが、情濃やかな妻宛ての手紙の数々を見ると、「案外いい人だったんだな」という気になる。見当違いの方向でしゃにむに努力を重ねた野口を、わかったふうに作った自分の一首を読み返し、「申しわけない!」と思うのであった。

   *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月刊行)

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2012年12月30日

2012年の反省

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1年経つのがどんどん早くなっている。
今夏ブログを再開したものの、なかなか頻繁に更新できなかったのは、私の要領の悪さのせいである。仕上げるべき仕事が中途半端な形のまま2012年が終わろうとしていることに、愕然とするばかりだ。

年々に吾という鍋厚くなり形なきまで煮溶かす思い

この歌を作ったのは三十代後半のころ である。人間的な成熟という意味の厚みではなく、一種の鎧のようなイメージを表した。「煮溶かす」べき思いというものをたくさん抱えていた時期でもあった。今になれば、そこまで煮溶かすなんてことはできず、ごつごつとしたものと何とか折り合いながら生きるしかないことが分かるのだが。

いま、1月3日締め切りの仕事に全力投球しなければならない状態である。しんどいけれども、これが形になったときの喜びも大きいと思う。

というわけで、皆様よい新年をお迎えください。
来年はもう少し頻繁に更新して、よい歌をたくさん紹介したいと願っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社・1998年12月刊行)
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2012年11月22日

猫が来た!

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 リアル系の歌人、あるいは「歌のなかの『われ』=作者」と思っている人からは、ひんしゅくを買うかもしれないが、歌人の私は嘘つきである。
 表象としての猫はかわいいと思うが、実際には猫そのものは苦手であった。なのに、気まぐれに猫と自分を重ねた歌を作ったりしていた。

  猫なれど尾を振る習い覚えんと残業こなす均等法以後
  やんわりと仕事の筋を通しつつ猫語を解する上司が欲しい
  灼けた砂に四肢を伸ばして啼いてみる輪郭なきまで撫でられたくて


 こんな歌を作ったものだから、ある短歌総合誌で「あなたは犬派? 猫派?」という特集があったとき、本当は犬が好きで犬しか飼ったことがないのに、(多少は気が咎めつつも)しれっと「猫派です!」という回答を提出したのであった。

 ところが人生はわからないもので、先週わが家へ仔猫が2匹やってきた。
 ことのはじまりは、相棒が得た「近所の牛小屋に捨て猫がたくさんいる」という情報であった。いつもは私に対し兄貴風を吹かす相棒が、遠慮がちに「君は猫があんまり好きじゃないから、別に飼いたいってわけじゃないんだけどさ…」と切り出したのが少々気味も悪かったのだが、まあ見に行くだけなら、と同行することになった。
 そして、わらの積まれた牛小屋で、猫好きの相棒が相好を崩して仔猫と遊ぶ様子を見て、「うーむ、私のせいで猫なし人生を送らせるのは、この人にとってQOLを著しく低下させることになるかもしれん。それは人道上どうなのか」と葛藤すること数日……トイレのしつけはどうするのか、グランドピアノの脚で爪とぎなどしないのか、といった情報収集に励み、「1匹より2匹の方が、猫同士で遊ぶので楽」というアドバイスを信じ、ついに新たな家族を2匹迎え入れることになったのだった。
 結果としては、まあ、にぎやかになってよかった。気難しい私は、「人間みたいな名前はつけない」「可能な限りキャットフードは利用しない」「布団の中には入れない」などの条件を付けたのだが、今のところ問題なく1週間が過ぎた。
 愛玩動物を飼うのは、少々罪の意識を伴うことだ。『アジアを食べる日本のネコ』(梨の木舎、1992年刊行)には、フィリピンやインドネシアで獲られたマグロが、タイにあるペットフード工場で加工される実態がルポされている。現地の人には手の届かないマグロである。ペットフード市場は年々拡大する一方で、日本での消費量は2400億円を超えているのだが、捨てられる犬や猫が一向に減らないのはどうしたことだろう――。小さなふわふわした家族と暮らす日々、こうしたことも忘れてはいけないと心に銘じている。

 *松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社・1998年12月刊行)
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2012年11月13日

恋の不思議

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 私より10歳ほど若い友人と話していて、彼女がパートナーについて「もう最近、『死ね!』とか思っちゃうことがある」と明るく言うので、笑ってしまった。そして、それも愛なんだよね、としんみりした気持ちになった。
 一緒に暮らすようになると、本当につまらないことで苛立ったり、ぶつかり合ったりする。「死ね」とは思わないまでも、「もう、こんな人、いなければいいのに」と思う瞬間は、多くの人が経験しているのではないだろうか。初めてそんな気持ちになったとき、自分自身に対して情けなくて、心底悲しくなったのを覚えている。あんなに大切に思っていた人、誰よりも大好きな人に対して、どうしてこんな感情を抱かなければならないのか、あのとき関係がダメになっていた方がよっぽどよかった――そう思うと、とめどなく気持ちが落ち込んだ。
 けれども、相反する感情を抱くのもまた、恋の不思議さなのだろう。

  一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段
                          東 直子


 最初に読んだ1997年当時、私は歌の意味がよく分からなかった。「東さんって、おもしろい歌をつくるなー。映画みたい」なんて思っただけだった。
 この「死ね」は、暮らしを共にした結果の憎らしさではなく、かなり深く鋭い感情だ。それほど激しい「好き」なのだ。「一度だけ」の繰り返しから、その恋が短期間だったことが分かる。「非常階段」がさらに切羽詰まった雰囲気を演出しているのが巧みだ。

  馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
                          塚本邦雄


 恋は怖い。本気の恋は、激しい愛憎の両極を行ったり来たりする。そして、めでたく成就して共に暮らすようになってからも、日常の「好き」の合間に「死ね」と思う瞬間が混じったりする。
 あっけらかんと「『死ね!』とか思っちゃう」と言った友人に、東さんの一首をメモ用紙に書いて渡すと、一読して「ね、これ、不倫の恋じゃない?」と首をかしげる。理系出身の彼女は、短歌とは何の縁もない人だ。おぬし、やるな。

  *東直子歌集『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店・1996年12月刊行)
  *塚本邦雄歌集『感幻樂』(白玉書房・1969年9月刊行)

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2012年10月30日

運動会

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 先日、地元の小中学校で運動会が開かれた。
 小学生11人、中学生2人という小さな学校なので、親以外の地域住民も積極的に参加する。子どもの出る演目ばかりだと、プログラムがすぐに終わってしまうし、疲れてしまう。子どもたちの「かけっこ」の次は、一般のおとなたちの「1000m走」、それから子どもたちの障害物競走のような趣向の紅白戦、そして、またまた一般参加の「グランドゴルフ」――という具合に、プログラムは組まれている。
 13人が紅白に分かれると、同じ人数ではなくなる。紅白リレーで走る距離を案分したり、大縄跳びを取り入れたりと、人数の少ないことが不利にならないような工夫が凝らされていて感心した。綱引きや玉入れは、来場したおとなたちも加わった合同の紅白戦となる。

  子に送る母の声援グランドに谺(こだま)せり わが子だけが大切
                        栗木 京子


 栗木さんの歌は、都市生活者の感覚を偽悪的に描いていて、時代の雰囲気もよく表れていると思う(歌の収められた歌集は1994年に出版)。「わが子が大切」なのはいつの時代も同じだが、「わが子だけが大切」という本音をあらわにするのは憚られる。しかし、小学校受験などが熾烈になり、少子化が進む今、どんな親の心の底にも「わが子だけが」という少しばかり暗い気持ちが潜むことを、この理知的な歌人は鋭く表現したのだ。
 ふだんからよその子を下の名前で呼び合っているこの地域では、自分の子以外の子どもも、かなり同じ大切さで思っているのではないだろうか。違う学年の子たちが協力し合って練習しなければ、組体操やエイサー踊りなど、どれ一つとして成り立たない。学年半ばでもっと大きな学校へ転校してしまう子もいる中、どの子も本当に大切な存在だ。
 私は息子の運動会を、保育園のときしか見たことがない。昨年、地域の運動会を見に行ったときには、入場行進の段階で涙がこみ上げてきて困った。けれども、今年は自分の息子のことなどこれっぽっちも思い出さず、子どもたちの一所懸命な表情に時々胸が詰まるような感激を覚えつつ、一人ひとりに声援を送った。島に移り住み、「わが子だけが大切」でないことを経験できて本当に感謝している。

  *栗木京子歌集『綺羅』(河出書房新社・1994年4月刊行)
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2012年10月15日

兄か、弟か

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 若いころ女友達と「年上がいいか、年下がいいか」なんていう議論をしたものだが、今思うと笑ってしまう。いくら自分で「年下の男性がいいなぁ」と思っていたところで、惚れてしまえば前言撤回、後付けの理屈を並べて周囲を白けさせることになるのに、若さとは愚かさである。
 そして、人の年齢というものが当てにならないことも、だんだんに分かってくる。何歳になっても夢と理想を追い求める人もいれば、早くから自分の世界を規定してしまう人もいる。また、関係性というのは常に変わるものであり、パートナーに対して妹のように甘えていた自分が、次の瞬間には母のごとく諭しているということもある。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀      津川絵理子

 「草雲雀」は初秋の季語。鈴を振るような鳴き声が美しい、小型のコオロギである。その小さなコオロギと「おとうと」の取り合わせが何ともいえず、胸に迫る。「夫」が実際に作者よりも年下であるかどうかは分からない。むしろ、年下でない方が句の味わいがあるだろう。そして、たぶん作者はいつも彼に対して「弟のようだ」と感じているのではない。草雲雀の鳴き声を聞きつつ、秋の訪れや来し方を思っている今このときに、ふと「おとうとのやう」という思いを抱いた――。相手を包容するような深い情愛の感じられる句である。

  兄という親愛に恋は流れ着き寝起きの鼻をつままれている
                             松村由利子


 この歌は、歌集が出たとき山田富士郎さんが書評のなかで取り上げてくださったことで、愛着のある一首となった。自分の歌のよしあしというのは分からなくて、人に褒められて「ほほう」と思うことが多い。
 弟と二人きょうだいの私にとって、「兄」は少し憧れの存在である。いろいろ教えてもらったり、かばってもらったりするのだろう。少しいじめられたかった気もする。そういうわけで、ふとした瞬間に「兄さんってこんな感じ?」と思うことがある。このトシになるとあまり暑苦しい愛の歌も詠めず、ちょっと滑稽味を加えたくらいが丁度いい。
 現実の弟は六歳下なのだが、随分と頼りがいのある男になり、兄のように思うことが多い。兄も弟も、いいものだ。

  *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂・2012年8月刊行)
  *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社・2010年5月刊行)
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