
消しゴム版画家で稀代の名文家だったナンシー関が亡くなって10年経つ。このほど出版された『評伝 ナンシー関 心に一人のナンシーを』(横田増生著・朝日新聞出版)を読み、そのすごさを改めて思った。
評伝を読んで最も印象に残ったのは、優れたテレビウォッチャーだった彼女が、ほとんどテレビに出演しなかったことである。消しゴム版画の作り方を紹介する番組などに数回出たほかは、依頼されても決して出なかった。出演者や制作側との関係ができて「テレビの中の人」になってしまったら、痛烈な批判ができない。あくまでも「外の人」として、彼女は筆鋒鋭く書き続けたのだ。
そのことを知り、私は歌壇の状況を思った。短歌の世界では、ごく当たり前のこととして、歌人同士で歌集や歌論集の批評をしている。しかし、それは不幸なことだ。自分の作品を棚に上げて他人の欠点を指摘するのは、どうしたって難しい。それに、ある程度の年月、歌仲間と勉強を重ねていれば、短歌関係のシンポジウムや新人賞などの授賞式に出席する機会ができ、いろいろな人と顔見知りになる。「歌壇の中の人」でありつつ、公平公正かつ鋭い批評を書くことは至難だと思う。
ナンシー関の次の文章を読んだとき、私は平手打ちを喰らったような気がした。
「人間は中味だ」とか「人は見かけによらない」という、なかば正論化された常套句は、「こぶ平っていい人らしいよ――(だから結構好き)」とか「ルー大柴ってああ見えて頭いいんだって――(だから嫌いじゃない)」というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは「つまらない」である。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ。
そこで私は「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。
『何をいまさら』(1993年・世界文化社、のち2008年に角川文庫)より
文中の固有名詞を歌人の名前と入れ替え、「テレビに映った時につまらなければ」を「歌がつまらなければ」にすると、突き刺さってくるものがある。自分が「顔面至上主義」ならぬ「短歌至上主義」を貫いているとは断言できない。
金井美恵子が「道の手帖 深沢七郎」(河出書房新社、2012年5月刊)に、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」と題する文章を寄せて話題になっているが、ここに在る「歌壇の外の人」のまなざしをとても貴重だと思う。
例えば、新聞の短歌・俳句のページにある書評欄を、彼女は「句集や歌集を、書評というわけではなく、かならず好意的に紹介する『新刊』という小さなコラム」と皮肉っている。「好意的に紹介する」というのは、新聞に限らず短歌総合誌にも言えることだ。出版される多くの歌集の中からピックアップされた本について書くのだから、わざわざ欠点を突くのでなく、優れたところ、評価すべき点を書けばよい――歌集評を依頼されると、そう思って書いてきた。しかし、私の書いた書評を読んで「この歌集、読んでみよう」と歌集を買った人を失望させることが全くなかったと言えるだろうか。自分は決してナンシー関のような、誰から何と言われようと恬として恥じない批評をしてこなかったと省みる。
評伝のサブタイトル「心に一人のナンシーを」が、とても胸に響く。才能豊かな彼女が39歳で亡くなった今、もう誰もあんなふうに、テレビの予定調和やわけ知り顔のコメントのいやらしさ、仲間同士にしか通じない内輪ネタを批判しない。もはや一人ひとりが心の中にナンシーをよみがえらせ、突っ込んでみるしかないのだ。
と同時に、「歌壇に一人のナンシーを」とも願ってしまう。そして、それがかなわないのであれば(絶対にそんな人は現れないだろう…)、「こんなぬるい批評をしたらナンシーさんに何と言われるだろう」と「心に描いてみた歌人ナンシー」の声に耳を澄ませ、勇気をもって書いていかなければならないと思う。
posted by まつむらゆりこ at 22:44|
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