2012年10月07日

停電の夜に

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 ジュンパ・ラヒリは大好きな作家だ。彼女の最初の短篇集『停電の夜に』(新潮社)の冒頭に置かれた「停電の夜に」は、とても味わい深い作品である。
(この短篇の原題は”A Temporary Matter”であり、訳者、小川高義のセンスのよさを改めて思う)
 若い夫婦がたまたま数日間連続して停電を経験することになり、これまで話すことのなかった事柄を互いに話す――というのが物語のあらすじである。電気工事のために5日間、毎日午後8時からの1時間だけ停電するというのだが、それがワーキングカップルにとって、ちょうど夕食の時間だったというのもポイントだろう。彼らは記憶をたぐりつつ、相手に告げずにいた過去の出来事を語りだす……。

  停電の夜にあなたの語りだす昔の恋にシナモン香る

 これは、今年の「歌壇」2月号に寄稿した「停電の夜に」と題する一連の中の歌だ。ジュンパ・ラヒリへのオマージュの気分で作った。歌の内容は事実ではなく、全くの妄想である。私が実際に「停電の夜」を経験したのは先日、台風17号の来襲した際のことだ。停電はほぼ24時間だったが、それでも、闇が自分たちをひたひたと囲むという、特別な感じは十分に味わうことができた。
 相棒はテレビっ子のはしりだった世代であり、なおかつ四六時中テレビのついている職場に長くいたものだから、私たちの夕食時にはいつもテレビの音声と映像がある。だから、卓上ランプに照らされた食事と相手は、実に新鮮であり、照らされていない暗い部分があることもまざまざと感じさせた。ラヒリの小説を読んだか読まないか知らないが、相棒はぽつりぽつりと結構いろいろなことを話した。私も少しばかり緊張して耳を傾けた。
 私たちはどれほど、不必要なほどの明るい光と音声に夜を奪われているのだろうか。台風のときの停電は、吹き荒れる嵐の音がすごかったのだが、食卓には何か静寂に似たものがあった。台風ではないときに、また「停電の夜」を経験したい。闇と静寂、それは人にとって欠かせない、大切なものだと思う。
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2012年10月03日

台風一過

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 先週末の台風17号は、私にとって初めての大きな台風だった。
 移り住んで以来、石垣島にいくつかの台風が訪れたが、いずれもかすめた程度。唯一、大きかった昨年の1つが来た際は、ちょうど東京へ行っていて体験することができなかった。
今回も実は28日から30日まで福岡へ行く予定にしていたのだが、27日夜に翌日の全便欠航が決定し、張り切って台風に臨むこととなった。
 私の住む地域は、市街地から車で30分というところで、買い物に不便というだけでなく、停電や断水といったライフラインが途絶えたときに復旧が遅いという実情もある。地元の人たちの語り草となっている、2006年の台風13号のときには、3日ほど停電が続いたという。
 28日のお昼、隣の集落にあるパン屋さんに買い出しに行くと、すっかり顔なじみになった彼女が開口一番、「おふろに水もためておかないと!」と言うので、私の緊張度もさらに高まる。食パン2斤とバゲット、菓子パンを数個買って帰った。そして、浴槽に水をため、非常用のランタンやカセットコンロを出し、懐中電灯の電池を確かめ……。
 沖縄在住の人のブログを読んでいて「台風太り」という言葉に出合ったときには、笑ってしまった。これは停電した場合に備えて、あらかじめ冷蔵庫の中にあるものを片付けることによって起こるのである。「あ〜、このアイスクリーム、今のうちに食べておかないと」「ヨーグルトも早めに食べないとなぁ」――かくして、台風が来る前にはちょっぴり栄養過多になるというわけだ。
 台風17号が最も石垣島に接近したのは29日20:30頃だった。停電はその日の夕方から30日の夕方まで、ほぼ24時間で済んだ。停電するよりも先に、電話線が切れてしまったのだが、これは今(10月3日現在)に至るまで、まだ復旧していない。

  塩に髪を強ばらせゐる木々に吹き今年十二度目の台風が来る
                       渡 英子


 17号によって、わが家のバナナはほとんど倒されてしまった。他の木々も、潮風になぶられて葉が茶色になり、瀕死の状態である。海が近いので、この歌の「塩に髪を強ばらせゐる」という比喩には深くうなずかされる。
 潮風にさらされるのは木々だけではないから、台風が去った後は、車の丸洗いが不可欠である。そのままにしておくと、小さな傷からどんどん錆びてしまう。それから壁や窓ガラス一面にこびりついた木の葉やほこりを高圧洗浄機で洗わないといけない。これも塩が含まれるので、放置していても自然に流れるということがないのである。
 いろいろあるけれど、地震と違って台風は予測、対策ができるのがありがたい。回数を重ねるごとに、防災のノウハウも磨かれる。この島に暮らす限り、台風ともうまく付き合ってゆかなければならないのだと思う。

  *渡英子歌集『レキオ 琉球』(ながらみ書房、2005年8月刊行)
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2012年09月23日

演奏中の顔

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 先日、東京へ行った際、書店で面白い本を見つけた。『吹奏楽部あるある』(白夜書房)である。
 高校時代、私は「音楽部」という名の吹奏楽のクラブに所属していた。この本は、吹奏楽に熱中した元・少年少女にはなつかし過ぎる内容で、何度読んでも笑ってしまう。
 「自分の楽器に名前をつけている」「転びそうになると、自分はけがしてでも楽器を守る」「ミスった時、楽器をいじくってごまかす」など、現役時代をまざまざと思い出させるものから、「ドラマや映画の楽器演奏シーンに全力で突っ込む」「卒業後、かつての仲間が他の楽団で演奏しているのを見た時に感じる一抹の寂しさ」といった、今も残っている習性(?)まで、さまざまな「あるある」が書かれているのだ。

  歌うとき顔が醜くなるひとの多きことふいに小雨散りくる
                       内山 晶太


 この歌の作者は、大学時代、混声合唱団に所属していた人だ。美しい楽曲を歌いながら、団員仲間がちょっぴりヘンな顔になることを淡々と詠った一首に、『吹奏楽部あるある』の「演奏中は『女』を捨てている」という項目を思い出した。

演奏する音楽は美しいが、演奏する姿まで美しいわけではない。顔が真っ赤になったり、鼻の穴が膨らんだり、楽器を股の間に挟んだり…。女子部員には「女」を捨てることが必要とされる(フルートを除く)。

 私はフルートパートだったので、この項目の最後に異を唱えたい。フルートだって、演奏中はヘン顔になる。いい音を出すには、口の中を拡げることが必要とされる――つまり顎を下げ口腔内の容積を増やそうとすると、唇の端は下がり気味にならざるを得ない。決して口角の上がった、にっこり顔では吹けないのだ。というわけで、ドラマや映画でフルートを吹いている女優さんがきれいな顔で吹いていると、「この人、吹いてないよ!」「ぜんっぜんリアルじゃないっ!」と憤慨し、家人から「なんでそこまで怒らなくちゃいけないの?」と言われることになってしまう……。
 内山晶太さんの歌集は、不思議な透明感と静けさを感じさせる佳き一冊だ。音楽を詠った作品は思いのほか少ないのだが、耳のよい作者であることが分かる韻律の美しさがある。

  思い出の輪唱となるごとき夜を耳とじて耳のなかに眠りぬ
  シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も

 

 *内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林、2012年9月刊行)
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2012年09月14日

津川絵理子さんの句集

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『はじまりの樹』

 句集や歌集を読み、人に惚れるということがある。なぜか女性である場合がほとんどだ。津川絵理子さんには心底、惚れてしまった。

  風鈴を鳴らさずに降る山の雨
  ものおとへいつせいに向く袋角
  向き合うてふつと他人やかき氷


 切り取られた瞬間の、何と生き生きしていることだろう。この人の清新な感覚が捉えた景に、ただただ魅せられてしまう。
 俳句は男性的な文芸と言われるが、女性ならではの句というものが確かにある。

  綾取や十指の記憶きらめける
  群らがつてひとりひとりや日記買ふ
  山笑ふ雑巾のみなあたらしく


 「綾取」の句は、幼い日から今に至るまでの時間が織り込まれていて、実に味わい深い。また、来年の日記を売るコーナーに人が集まる様子から「ひとりひとり」であることを思う知性の濃やかさに感服する。新しい雑巾の清々しさは、何か藤沢周平や宮部みゆきの時代小説に登場する、凛と美しい女性たちを思い出させる。
 そして、この人の愛の句が本当に素晴らしいのだ。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀
  助手席の吾には見えて葛の花
  滝涼しともに眼鏡を濡らしゐて


 人を愛するなら、こういうふうに愛したい――何だか涙ぐみそうになって読んだ。丁寧に愛し、丁寧に生きる人だけが詠める句だと思う。

  捨猫の出てくる赤き毛布かな
  飼ひ犬の老ゆるはやさよ鴨足草
  深々と伏し猟犬となりにけり


 動物の好きな人らしい。どの句にもあたたかみがある。最後の一句、この作者の魂の大どかさというか、作者自身にも理解し兼ねるわけの分からなさのようで、特に愛誦する。

 *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂、2012年8月刊行)
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2012年09月04日

ナンシーさんを恋う

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 消しゴム版画家で稀代の名文家だったナンシー関が亡くなって10年経つ。このほど出版された『評伝 ナンシー関 心に一人のナンシーを』(横田増生著・朝日新聞出版)を読み、そのすごさを改めて思った。
 評伝を読んで最も印象に残ったのは、優れたテレビウォッチャーだった彼女が、ほとんどテレビに出演しなかったことである。消しゴム版画の作り方を紹介する番組などに数回出たほかは、依頼されても決して出なかった。出演者や制作側との関係ができて「テレビの中の人」になってしまったら、痛烈な批判ができない。あくまでも「外の人」として、彼女は筆鋒鋭く書き続けたのだ。
 そのことを知り、私は歌壇の状況を思った。短歌の世界では、ごく当たり前のこととして、歌人同士で歌集や歌論集の批評をしている。しかし、それは不幸なことだ。自分の作品を棚に上げて他人の欠点を指摘するのは、どうしたって難しい。それに、ある程度の年月、歌仲間と勉強を重ねていれば、短歌関係のシンポジウムや新人賞などの授賞式に出席する機会ができ、いろいろな人と顔見知りになる。「歌壇の中の人」でありつつ、公平公正かつ鋭い批評を書くことは至難だと思う。
 ナンシー関の次の文章を読んだとき、私は平手打ちを喰らったような気がした。

 「人間は中味だ」とか「人は見かけによらない」という、なかば正論化された常套句は、「こぶ平っていい人らしいよ――(だから結構好き)」とか「ルー大柴ってああ見えて頭いいんだって――(だから嫌いじゃない)」というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは「つまらない」である。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ。
 そこで私は「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。
 『何をいまさら』(1993年・世界文化社、のち2008年に角川文庫)より

 文中の固有名詞を歌人の名前と入れ替え、「テレビに映った時につまらなければ」を「歌がつまらなければ」にすると、突き刺さってくるものがある。自分が「顔面至上主義」ならぬ「短歌至上主義」を貫いているとは断言できない。
 金井美恵子が「道の手帖 深沢七郎」(河出書房新社、2012年5月刊)に、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」と題する文章を寄せて話題になっているが、ここに在る「歌壇の外の人」のまなざしをとても貴重だと思う。
 例えば、新聞の短歌・俳句のページにある書評欄を、彼女は「句集や歌集を、書評というわけではなく、かならず好意的に紹介する『新刊』という小さなコラム」と皮肉っている。「好意的に紹介する」というのは、新聞に限らず短歌総合誌にも言えることだ。出版される多くの歌集の中からピックアップされた本について書くのだから、わざわざ欠点を突くのでなく、優れたところ、評価すべき点を書けばよい――歌集評を依頼されると、そう思って書いてきた。しかし、私の書いた書評を読んで「この歌集、読んでみよう」と歌集を買った人を失望させることが全くなかったと言えるだろうか。自分は決してナンシー関のような、誰から何と言われようと恬として恥じない批評をしてこなかったと省みる。
 評伝のサブタイトル「心に一人のナンシーを」が、とても胸に響く。才能豊かな彼女が39歳で亡くなった今、もう誰もあんなふうに、テレビの予定調和やわけ知り顔のコメントのいやらしさ、仲間同士にしか通じない内輪ネタを批判しない。もはや一人ひとりが心の中にナンシーをよみがえらせ、突っ込んでみるしかないのだ。
 と同時に、「歌壇に一人のナンシーを」とも願ってしまう。そして、それがかなわないのであれば(絶対にそんな人は現れないだろう…)、「こんなぬるい批評をしたらナンシーさんに何と言われるだろう」と「心に描いてみた歌人ナンシー」の声に耳を澄ませ、勇気をもって書いていかなければならないと思う。

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2012年08月28日

山口明子さんの歌集

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『さくらあやふく』

 いじめの問題を考えるたびに、学校の先生の大変さが思われてならない。メディアでは責任逃れしたがる教師ばかりが糾弾されるが、現場には心身をすり減らして生徒たちと向き合っている人がたくさんいる。

 ターゲット変へていぢめを繰り返す深き根雪を心にもつ子
 いかにして育てるべきか惑ひをりいぢめをしつつ試合に勝つ子
 班長の女子を容易に泣かせたりヘラヘラしつつ針のごとき子


 作者は岩手県の公立中学校教諭である。いじめられている子の悲しみや悩みを取り上げた歌は何度も読んだことがあるが、私はこの歌集で初めて、いじめる子を見つめる歌というものに出会った。
 一首目の「根雪」という言葉には、深い人間観察が表れている。その子の抱える重苦しいかたまりを思いやる気持ちがしんしんと伝わってくる。二首目からは、スポーツが得意な活発な生徒像が浮かび上がる。もしかするとクラスで中心的な存在なのかもしれない。「ちょっとした指導で、この子はいじめる側でなく、いじめをなくそうとする立場にだってなれるのではないかしら…」と思い惑う作者なのだろう。三首目の下の句には、かすかな嫌悪感、恐怖感が滲むだろうか。しかし、作者はこの子も否定はしていない。
 この三首がいずれも「〜〜子」で終わっているのは、修辞に凝る余裕がなかったということではないと思う。作者は、この子たちのありように余計なコメントを付け加えたくないのだ。
こんなふうに一人ひとりの生徒に心を砕いている先生たちが、職場の上司から理不尽な指示を受ける。

 「いぢめとふ言葉使ふな」上からの指示を拳を握りつつ聞く

 現場の教師が対面するのは、いじめだけではないことも思う。さまざまな家庭環境があり、さまざまな性格の子がいる。

 人を恋ふこころどうにも出来ぬ子がリップクリームを盗む放課後
 「つまらない遠足でした」と書いてくる日記顔面に水をかけらる
 注意せし我をにらむ子の目の奥に潜めるものを読み取れずをり
 わがひいき指摘する文にたつぷりとひいきされたき寂しさを読む


 教師にも感情というものがあるし、いろいろな限界を抱えている。しかし、それでもやっぱり子どもが好きだという気持ちに、私たちは感動する。万引きして警察から連絡を受けたり、「つまらない遠足でした」「○○さんをひいきしている」などという文章に傷つけられたりしても、この作者は、そこに満たされない思いや「ひいきされたき寂しさ」を読み取る。

 
 授業中反応せぬ子がわが言ひし本借りに来る つくし芽を出す

 「こういう本があるよ。先生もすごく好きなんだ」と授業中熱心に勧めても無表情だった子が、その後でむっつりと「先生、あの本、ある?」なんて尋ねてくる。思春期の子どもというのは何と扱いにくく、いとおしい存在なのだろう。「つくし芽を出す」には、作者の抑えがたい喜びがあふれていて胸が痛くなる。

  本箱が本を吐き出す部屋の中化粧水濃く瞬時ににほふ
  カーナビは知人の宅を不意に告ぐ がれきのみなる道走るとき


 岩手郡滝沢村に住む作者は、東日本大震災の大きな揺れを経験した。部活や宿泊研修の引率で、かつて宮古や釜石、陸前高田といった被災地を何度となく訪れた経験もあるという。自身の感情を抑制した歌の数々は臨場感に満ちている。学校のみならず、さまざまな現場に誠実に向き合う作者のまなざしが、本当に美しい。

 *山口明子歌集『さくらあやふく』(ながらみ書房、2012年8月刊行)
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2012年08月16日

「おまえ」と呼ばれる恋

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 この間、30代の友達が、パートナーとけんかした時のことを話してくれた。「おまえ、って言われてもう悲しくて。私にはちゃんと名前があるのよ!」と大粒の涙をぽろぽろこぼす彼女を見て、「ああ、私とおんなじだ」と思った。以前、こんな歌を作ったことがあるからだ。

  両膝を抱えよ肩は寒くともお前と呼ばれる恋遠ざけて

 何がイヤなんだ、と訊かれても困る。別に「対等な感じがしない」とか「ジェンダー的に…」なんて構えているわけではないのだ。生理的な嫌悪というのが一番近いだろうか。「おまえ」と同様、「あんた」も嫌いだ。20代のころ、恋人から言われた時に、「アンタって言わないで!」と金切り声をあげたことを覚えている。
 しかし、すべての女が「おまえ」が嫌いなわけでは、勿論ない。

 
  年下の男に「おまえ」と呼ばれいてぬるきミルクのような幸せ
                       俵万智『チョコレート革命』
 「おまえとは結婚できないよ」と言われやっぱり食べている朝ごはん
                       俵万智『かぜのてのひら』


 「おまえ」に何とも言えない温かみや親しみを感じる人も少なくないだろう。また、状況や口調、声音などが関わっていることは確かだ。同じ「バカだなぁ」というひと言だって、愛情たっぷりの睦言にもなれば、軽侮のこもった冷たい嘲りにもなる。
 けれども、人それぞれの語感というものは抜き難くあり、「この言葉は嫌い」「これだけは言われたくない」というものがあると思う。難しいのは、そんな言葉を集めたリストみたいなものは存在しないので、「この人にこの言葉を言うと、それだけで傷つけてしまう」ということは、年月をかけて探るしかないことだ。その一方で、「その言葉、きらいなの」「そういう言い方はやめてほしい」と、大事な人に勇気を出して伝えることも必要だ。
 私がつれあいから言われて、とてもショックだったのは、「おためごかし」という言葉である。自分の行為についてそう言われ、返す言葉がなかった。去年1回、そして、つい先日言われ、「あ、また…」とへこんだ。
 今に至るまで、そのことを伝えられずにいる。かつて「アンタって言わないで!」と逆上したのは若さだったのかな、と思う。恋人はとても驚き傷ついただろうが、ああいうふうにぶつけられたのは幸せだったのかもしれない。

*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月刊行)
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2012年08月13日

片山由美子さんの句集

『香雨』

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 短歌を選ぶか、俳句を選ぶか、というのは、その人の抒情の質、気質と深く関わっている。私にとって俳句を読む喜びは、世界の切り取り方の違いを知ることだ。

   手に触るるものの冷たき夏の闇
   青きもの見ざりしひと日髪洗ふ


 片山さんの句には長年親しんできた。清澄な詩性が持ち味であり、女性性をたっぷりと湛えた美しさがいい。厚みのある闇のなかで、ふと触れるものの冷たさ、そしてじっとりと粘つくような一日の疲れをざぶざぶと洗い流すときのかなしみ――彼女のよさが遺憾なく発揮された二句だと思う。
 そして、見立て、発見の鮮やかさも見事である。

 
   蟻が引くニケの翼のごときもの
   花ミモザ聖書に罪の文字いくつ
   香水をえらぶや花を摘むごとく


 蟻の一句は、三好達治の「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」を思い出させるが、それを上回る素晴らしい見立てにうっとりさせられる。聖なる書であるバイブルに「罪」という文字がいくつ記されているのか、という皮肉、女が香水を選ぶときの心躍りを素朴な喜びに比した組み合わせの妙も、この人ならではの機智である。

   月曜の新聞軽し柿若葉
   夕刊をはらりとたたみ冷奴
   秋暑し見出しを見せて売る新聞


 新聞を詠んだ名句集を編みたくなるような三句。日曜日には官庁ネタがほとんどなく、出番の記者も少ないから、月曜朝刊のページ建ては少ないのだが、それに気づいている読者がどれほどいるだろう。一句目は、初夏のさわやかさと朝刊の軽さが絶妙な雰囲気を出している。
 夕刊をざっと読んで「今日も暑いから冷奴でいいわね」と立ち上がる女の姿、駅のスタンドに並んでいる夕刊紙の見出しの暑苦しさと残暑、これも誠に景がくっきりとしている。季節感というものが一句に与えるスパイスのような作用が、本当にすごいな、と思う。

   子猫抱く久しく人の子を抱かず
   桜湯の花の浮かんとして沈む


 短歌的抒情や時間の経緯が詠み込まれた俳句がけっこう好きだ。自分は俳味というものをきちんと理解していないのかもしれない、と心細く思ったりもする。それでも、好きな句は好きなのだから仕方ない。この二句のぼわんとした雰囲気、そこはかとなく漂う哀感にとても惹かれる。

  ☆片山由美子句集『香雨』(ふらんす堂・2012年7月)
posted by まつむらゆりこ at 16:57| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月02日

ハイヒール

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 仕事で時々東京へ行く。そのとき一番いやなのは、人込みでも空気の悪さでもなく、ハイヒールを履くことである。会社を辞めてよかったことはたくさんあるが、ハイヒールを毎日履かずにすむようになったことは五本の指に入るかもしれない。

 ハイヒールで鋭(と)くも働くことなくて歪まざるまま老いてゆく足
                        米川千嘉子


 株式会社の取締役にまで上り詰めた友人がいる。大変に優秀で、よく呑みよく遊ぶ豪快な女性である。その彼女が石垣島のわが家に遊びに来てくれたとき、夏だったから到着してすぐ素足になったのだが、足元を見てはっと胸を衝かれる思いだった。本当に、外反母趾の典型のように変形していたからである。
 ワーキングウーマンには、男性たちに分からないさまざまな苦労がある。育児や家事との両立以外にも、月経やその前期のコンディション調整、組織で目立ちすぎないファッションの選択……そして、ストッキングとハイヒールを履く苦痛など。通勤電車で何が何でも坐りたくなるのは、全身の疲れというよりは足の疲れが理由なのだ、女性の場合は。
 この歌の作者も、足が変形した人と会う場面があったのだろうか。健康な形の足は誇るべきものでもあるだろうに、作者はハイヒールで闊歩して働く人生があったかもしれないことを少し寂しく思っている。「歪まざるまま老いてゆく」ことの“歪み”を見つめているような屈託がかすかに感じられる。
 女たちの隠された足の形を思うとき、須賀敦子『ユルスナールの靴』の冒頭部分がよみがえる。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。――」
 二十数年会社勤めをした私の足は、そこそこハイヒールに痛めつけられたものの外反母趾にはなっていない。今は毎日ビーチサンダルを履くのでよく日焼けしているのだが、鼻緒に隠れる部分がくっきりと白く残っているのがご愛嬌である。

 *米川千嘉子歌集『あやはべる』(短歌研究社、2012年7月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:39| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月25日

日比野幸子さんの歌集

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『四万十の赤き蝦』

 先日、同じ短歌結社「かりん」に所属する日比野幸子さんの歌集『四万十の赤き蝦』の批評会が行われた。彼女は16年前に乳癌を発症し、現在、転移した癌と闘っているところである。批評会当日の朝の体調は思わしくなかったというが、気持ちの昂揚のせいか、会には笑顔で出席され、最後に「もっともっと歌を作ります」と力強く語られた。とてもよい会だった。

 赤い三輪車雨に濡れおり虐待の家映さるる画面の端に          
 ヒラリーの撤退宣言聞く朝のゆですぎたグリーンアスパラのサラダ   
 その苦痛われのものなり避難所にウィッグなき頭のおみな映れば


 日比野さんが優れた観察者であることは、テレビを見て作られた歌だけを見ても分かる。一首目は児童虐待のニュース映像の「画面の端」にある「赤い三輪車」に着目した視点が光る。小さな三輪車は虐待された子どもの姿そのもののようだ。こんな見過ごされやすいところにも作者のまなざしは注がれ、その無惨さから逸らされることはない。
 二首目は2008年6月の、米大統領選に向けた民主党候補の指名争いで、ヒラリー・クリントンがオバマを全面的に支持することを表明し、自らの「撤退」を明らかにしたニュースが詠まれている。作者の思いはストレートには表現されていないが、「ゆですぎたグリーンアスパラ」に感じられる失望と落胆に惹かれた。何とも言い難い割り切れなさが、下の句の大幅な字余りからリアルに感じられる。
 三首目は、東日本大震災を詠ったものだ。着の身着のままで避難所へ身を寄せた人の中には、いろいろな病気の患者さんがいただろうし、その中には放射線治療の副作用によって頭髪を失った人もいたに違いない。私たちはなかなか他人の痛みを自分のものとして感じられないものだが、日比野さんは容貌の変化を隠す「ウィッグ」さえ持たない女性の所在なさ、悲しみを自分の痛みとしてひりひりと感じており、そこに深く打たれる。

 ももいろの「保育士募集」のはりがみの時給の安さをうつ秋の雨     
 王朝の妻の座のごときはかなさに二人目産めば消える席あり       
 子のあれど仕事のあれどさびしいといつか娘の見む道のエノコロ 
     

 作者は教師として長年働いた人であり、自分の娘もまたワーキングマザーとして奮闘している。「保育士募集」の貼り紙が甘い「ももいろ」であり、それを容赦なく冷たい「秋の雨」が叩いている情景は、実に切実だ。働く母親たちも苦しいが、彼女たちを支える保育士たちの現実もまた苛酷なのだ。
 「二人目」を産んだ女性の職場におけるポジションの危うさを、「王朝の妻の座」に喩えた二首目は、古典に親しんできた作者ならではの作品だろう。夫や組織の気まぐれに翻弄される女性へのシンパシーが、時空を超えて詠われている。
 三首目は少し独特かもしれない。「出産か、キャリアか」という二者択一の時代を経て、「子どもも仕事も」というわがままが通る時代となった。それはある意味「勝ち組」の女性である。しかし、他者から「勝ち組」と見なされとしてもなお、女性は何か根源的なさびしさというものを抱え続けるのだ。

 バリトンのよき声の医師やわらかく研究に資する治療を選べ
 実習のリスのような女子医学生副作用の苦に驚きやすし
 なにゆえにわれ病みたるかわからねど海の珊瑚は人ゆえ病めり
 

 日比野さんの透徹したまなざしは、自らの病を超えて世界へ広く注がれている。病むならば、このように鋭くタフな患者になりたい――そんな憧れさえ感じさせられる。病は残酷だが、屈することのない健やかで豊かな歌ごころがあふれ、元気になる歌集である。

 *日比野幸子歌集『四万十の赤き蝦』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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