2012年07月19日

言わない・言えない

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 女はおしゃべりな方がいい。
 時々、口の重い自分をもどかしく思うことがある。そして、他愛のないことを楽しそうに、小鳥がさえずるように話す女の人を、とても羨ましく眺めてしまう。河野裕子のエッセイには、彼女が帰宅した夫にくっついて家の中を歩き、その日の出来事をあれこれと話す様子がつづられていて、なんてかわいい人だったんだろう、と思う。

 鈍色の夜明けに思ふ 暮らすとはそれを言はずに暮らしゆくこと
 もの言はぬことが楽なりうらおもてふとんに秋の陽を当てながら
 貝の吐く夜の更けの水 母もわれもつくづく本音を言はぬと思ふ
                               朝井さとる


 歌を批評するには、その文体や韻律の美しさ、新しさ、テーマ性などを多面的に客観視することが必要とされる。けれども、どうしようもなく自分の深奥と響き合うものを感じ、うまく批評できないような歌もある。上に挙げた三首などはその好例だ。

 夜明けにふと目を覚まし、「それ」を言わずに日々を送っている自分を思う。「それ」は読む人それぞれが思い描けばよい。「昔の恋」か「親戚のトラブル」か、はたまた「相手の欠点」か……。家族であっても触れてはならないことが在る。そのことの悲しさ、切なさがじんわりと沁みてくる。
 私も以前、「もの言わぬことのしあわせ休日はしんと黙って手を動かせり」という歌を作ったが、この時は職場でいろいろと指示しなければならない立場にあり、その重圧が大きかった。一首の奥深さで言えば、職場の人間でなく、家族に「もの言はぬ」屈託の方が数倍まさっている。
 海を遠く離れたシジミやアサリでさえ、素直に水や砂を吐くのに、どうして私は近しい人にさえ「本音」をうまく伝えられないのだろう――。歌を読んで泣きそうになりながら、「ああ、ここに自分と同じような人がいた」と何とも言えない安堵を覚える。詩歌を読む喜びは、こんなところにある。

 *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2012年07月13日

電信屋

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 先日、石垣市内で、日本インターネットプロバイダー協会(JAIPA)の主催する「沖縄ICTフォーラム2012」が開催された。「スマートフォン・SNSの安全安心な活用について」「インターネット規制についての国際的な動きとその危機」といった議題に交じり、「明治政府の南西諸島への海底ケーブルの敷設について」という一枠があり、とても面白かった。
 日清戦争後の明治政府にとって最も大きな課題は、欧米列強に対抗するため、新たに統治下に入った台湾と日本本土を結ぶ通信網の構築だったという。九州〜沖縄〜台湾を結ぶ海底電信線の敷設という国家的プロジェクトが成し遂げられた際、石垣島にも海底電信線陸揚げ施設が建てられた。
 これが実は、地元で「電信屋」と呼ばれる施設である。わが家から車で10分余りのところにあるのだが、島の住民にも知らない人が多い。鹿児島から台湾までケーブルをつなぐうえで、石垣島は重要な中継地点の1つであり、陸揚げ施設は第二次世界大戦時に米軍の攻撃目標ともなった。1897年に造られた建物には空爆を受けた痕が残るものの、今もしっかりと建っている。

  旧日本軍の電信施設があるといふこの騒ぎ止まぬ穂波のむかう
  電信屋とふ廃屋ありて煉瓦壁に弾痕のくぼみ残るいくつか
                       渡 英子


 上記の歌が収められている歌集『夜の桃』の冒頭の一連は、「電信屋」というタイトルである。そして、最初の一首には「石垣市崎枝」という詞書が付けられている。歌集の出た2008年、私と相棒は石垣へ移り住む計画を着々と進めていたから、「崎枝」という自分にとって特別な地名がこの歌集に出てきたことに、ひどく驚いた。
 それにしても、今から100年以上も前から、通信技術は軍事や経済関係において重要なものと認識されていたのだなあ、と感心する。インターネット時代になって、ケーブルの中身は銅線から光ファイバーになったが、海底線としての基本的な構造や技術は継承されている。琉球の歴史と文化ばかりが沖縄ではない。現代史においても、かなり沖縄は面白い。

   *渡英子歌集『夜の桃』(砂子屋書房、2008年12月刊行)
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2012年07月08日

パイナップル

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 パイナップルのおいしい季節である。
 柑橘類や葡萄など好きな果物はいろいろあったが、こちらへ移り住み、「もしかすると、一番好きな果物はパイナップルかもしれない」と思うようになった。それくらい島のパイナップルは瑞々しく、甘みと酸味、香りのバランスが素晴らしい。
 自分で買うことは、ほとんどない。ご近所さんや友人からもらうことが多いからだ。時には食べきれないほどもらうので、あちこち配ったり、カットした状態で冷凍したりする。完熟したパイナップルは、芯までおいしく食べられ、太陽の恵みがぎゅぎゅっと詰まった感じがする。

 昔はおっかなびっくり包丁を入れていたが、今ではざくざくと大胆にさばけるようになった。七、八年前に「ざっくりとパイナップルを割くときに赤子生まれて来ぬかと恐る」という歌を作ったのだが、いま見ると「は?」という感じである。何でまた、そんな大げさな…と、以前の自分が滑稽に思われる。
  環境によって生活が変わり、自分が変わり、歌が変わる。だから、こつこつと歌を作り続けることが大事なのだろう。その時々で、心動かされるもの、興味を抱くものは違う。いま、言葉にしておかなければ、とどめておけない感動があるのだ。

  恋人は日盛りに意気揚々とパイナップルを携えて来る

 「恋人」はどんな場合にも、いつかは必ずそうでなくなる。別れてしまうこともあれば、毎日顔を合わせる関係になることもある。
 日常を分かち合うようになると、常に「意気揚々と」とは行かなくなるのが普通だろう。けれども、ちょっぴり贅沢な存在だったパイナップルが、日々の渇きを潤す果実になったように、自分も「恋人」以降の役割を楽しく、濃やかに果たさなければいけないな、と思う。

   *松村由利子歌集『鳥女』(本阿弥書店、2005年11月刊行)
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2012年07月01日

再開することにしました

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ブログを休んで1年たった。
仕事が捗ったか……と言えば、そうでもない。相変わらず原稿書きに追われている。
でも、先日友人から「みんなが楽しみにしているのだから、早く再開しなさい!」と叱られてしまった。

ずっと休んでいたのは、忙しさ以外にも理由があった。
誰に向けて発信しているのか、よく分からなくなったこと。
自己満足に過ぎないのではないか、という迷いがあったこと。
一定以上のレベルの文章を書かなければ!と気負っていたこと。
−−まあ、そんなところである。

あまり気負わず、緩い感じで、自分のよいと思う歌を少しずつ紹介してゆこうと思う。
更新する曜日もスタイルも決めず、気が向いたときに書くことにする。

みなさま、1年間ごめんなさい。
これからまた、どうぞよろしくお願いします。

今日の一首は、とても好きな歌集の中から。

  かなしみか 皿洗ふとき消えかけてまたふくらみて雨が脈打つ
                      朝井さとる


読んだ途端に、涙がじわーっと湧いてきた。
「かなしみ」は、心の奥にしまわれている。誰もが用心深く、その存在について考えまいと日常をやり過ごしているのだ。しかし、時折それはふっと浮かび上がり、自分を揺さぶる。
「かなしみ」は、誰とも分かち合うことができないのだと思う。そのこと自体がまた悲しくて、やるせない。

   *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2011年07月08日

しばらく休みます。

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 どうにもこうにも忙しい。
 ブログの記事も、今年に入ってからは、あまり興が乗らないのに無理やり書くことが増えてしまった。これでは、楽しみにしてくださっている方たちにも失礼だ。
 仕事が一段落するまで、しばらくの間、休載することに決めた。
 やっぱり、ウェブマガジンの連載を2本持つというのは、かなり大変なことであった。ストック原稿も使い果たして自転車操業状態なので、非常にマズい状況である。きちんと連載を終え、「紹介したい短歌や書きたい出来事がたくさん!」という気持ちになってから、再開したいと思う。
 元凶(!)の連載は以下の通り。

★「石垣島に魅せられて」
http://kaze.shinshomap.info/
 
★「女もすなる飛行機」
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/index.html

 週1回の更新もできなくなるなんて情けないが、仕方ない。
 自分の能力以上のことを引き受けないよう、いろいろな仕事も断っている。
 本当にごめんなさい!
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2011年07月01日

キュウリの車輪

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まな板に胡瓜の車輪走らせて何に急くとう心を知らず
                      長澤 ちづ


 キュウリを輪切りにする度に、この歌を思い出す。そして、何となく楽しくなる。
「厨(くりや)歌」というのは、女性の歌の1つのジャンルであった。いまは男性も魅力的な厨歌をいろいろ作っているが、自分の心境や人生の真理のようなものを野菜や魚介類に託して詠う手法というのは、なかなか味わい深い。
 最近すごく忙しくしていて、相棒から「もっとぼーっとする時間を持たないと、いいものは書けない」と叱られてしまった。確かにそうだと思う。一刻も早く食事の支度をしなければ、なんて思っているときに、こんな佳き厨歌はできないだろう。
 キュウリというものは、テンポよく輪切りにしていると、どうしてあんなにもコロコロと転がるのだろう。心の余裕がないと「ええい、このキュウリめ!」と苛立つのだが、作者は急くということをせずに、輪切りのキュウリを「車輪」に見立てて面白がっている。
 この歌人は私と違って、料理をするときにも心を働かせ、自分の奥深くに潜んでいるものを引き出す名人である。

 塩の壜ほがらかにあり容量に合いたる塩を内に満たして
 絞れるだけレモン絞った手のひらに怒りの所在稀薄になりぬ
 馬鈴薯の断面のごと瑞々と妬心抱きぬ 若さは無謀


 私はこうした厨歌をこよなく愛する。塩の壜に満ち足りた喜びを見出し、レモンを力いっぱい絞る充実感に怒りを忘れ、じわじわと水分の滲むジャガイモに「妬心」を思う余裕……。詩は暮らしのどこにでもあるのだと、改めて思う。日々を豊かに過ごしたい。

 ☆現代短歌文庫『長澤ちづ歌集』(砂子屋書房、2010年)

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2011年06月24日

台風

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  声を台風に飛ばされながら笑う友 背後はやけに広々として
                      花山 周子

 
台風5号が石垣島に近づいてきた。前回、2号が石垣に接近したときには東京にいたので、今度こそ(?)と張り切っているが、規模としてはあまり強くないようだ。
 マンゴーやパイナップルなど、農作物のことを考えると、なるべく風雨が強くないよう、祈るばかりである。わが家のバナナも、ようやく実がついたばかりなので、何とか持ちこたえてほしい。
それにしても忙しい。いろいろな仕事を引き受けすぎたのが原因である。昔から自分はそうだったなぁ、と反省するばかり。断れなくて引き受けるのではなく、その仕事が面白そうで、他の人にはさせたくなくて、どんどん引き受けてしまうのだから、単なるお調子者である。
 たくさんの締め切りが迫ってきてパニックに陥りそうになったとき、この歌のような豪快な人がいると、とても嬉しいだろう。こんな人は、言葉よりも先に体が動く人だ。私もそうありたい――ということで、相棒が庭から運びこむ鉢植えを、私もせっせと室内に敷いたブルーシートの上に並べるのであった。
 風の音が強くなってきた。気圧計はいつも1010hPaくらいを示すのだが、6月24日19時現在は990hPaを指している。さて、夕飯にしなければ。

☆花山周子歌集『屋上の人屋上の鳥』(ながらみ書房、2007年)
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2011年06月17日

やすたけまりさんの歌集

『ミドリツキノワ』

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 「不思議、大好き」というコピーは、本当に素敵だったと思う。子どもも、おとなも、「不思議」が大好きだ。「不思議」とは、センス・オヴ・ワンダーであり、文学にも科学にも必要なものだと私は思っている。

 分子ひとつの決意はいつも正しくて金平糖の角がふくらむ

 「やすたけまり」という、ひらがな書きの名前の歌人は、とてもやわらかい言葉で「不思議」を詠う人だ。この金平糖の歌も、すっと読めてしまうけれど深いものを秘めている。
 寺田寅彦の随筆に「金平糖」という一篇がある。金平糖の製造過程において、角のような突起が生じる物理的条件をあれこれと考察した内容だ。実のところ、金平糖の角ができるメカニズムはまだ完全には解明されておらず、今もいろいろな研究が続けられている。
 この歌の「分子ひとつ」の擬人化は決して甘いものではない。私たちはその「決意」の堅固なこと、美しいことにうっとりさせられる。見えない力によって砂糖の結晶が突起を伸ばす現象の、何と不思議なことだろう。
 こうしたセンス・オヴ・ワンダーは、彼女の歌の本質だ。

 地球ではおとしたひととおとされたものがおんなじ速さでまわる
 ながいこと水底にいたものばかり博物館でわたしを囲む
 なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました
 

 「おとしたひと」「おとされたもの」は、地球外から見るなら「おんなじ速さでまわる」存在である。「ひと」も「もの」も「おんなじ」であると見るまなざしに魅了される。博物館において「わたしを囲む」のは、化石標本だろう。化石は、海や湖だったところに生物の死骸が沈み、その上に泥や砂が堆積した後、長い歳月を経て出来たもの、つまり「ながいこと水底にいたもの」なのだ。「なつかしい野原」には、セイタカアワダチソウのような外来種の雑草ばかりが生えていた。そのことをおとなになって発見すると、何か郷愁と悲しみが入り混じった奇妙な気持ちを味わう。

 ニワトリとわたしのあいだにある網はかかなくていい? まよ
 うパレット
 本棚のなかで植物図鑑だけ(ラフレシア・雨)ちがう匂いだ
 凍らせた麦茶のなかにもっている ゆがんで溶ける水平線を


 出版されたばかりのこの歌集には、「幼ごころ」がたっぷりと詰まっている。幼ごころというのは幼稚なものではない。真実をまっすぐ見つめるまなざしを持ったものだ。センス・オヴ・ワンダーに満ちた世界を描き出した、この歌集がたくさんの人に届きますように。

 ☆『ミドリツキノワ』(短歌研究社・2011年5月、1700円)


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2011年06月10日

ブリキ

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 特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイ
ラです             東 直子


 お菓子の型というものは、何となく持っているだけで楽しい。いつか作るケーキやゼリーが目に浮かんで、心が浮き立つ。
 型の素材はステンレスや銅などいろいろだが、鉄にスズをメッキ塗装したブリキ製のものは最近ほとんどないようだ。「ブリキ」という言葉には、何ともいえないノスタルジーと温かみがあって、ほんわかさせられるのだけれど。
 このところ、稲垣足穂のことを調べているのだが、次のような一節に出会って、東直子さんの歌を思いだした。

 「お月様が出ているね」
 「あいつはブリキ製です」
 「なに ブリキ製だって?」
 「ええどうせ旦那、ニッケルメッキですよ」(自分が聞いたのはこれだけ)
         (『一千一秒物語』の「ある夜倉庫のかげで聞いた話」)

 これは「お月様」がブリキ製だといっているのだが、私は東さんの歌のイメージから、どうしてもブリキの型で焼いたホットケーキのような月を想像してしまうのだった。
 写真は、先日母から送ってもらった型。石垣島のスーパーや百円ショップではどうしても見つからなくて頼んだ。右側は、「クグロフ」と呼ばれるアルザス地方のお菓子の型らしいが、ゼリーを作ってもきれいだと思う、と選んだそうだ。さて、仕事が終わったらお菓子を作ろうか!

 ☆東直子歌集『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、1996年12月)
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2011年06月03日

卵のような

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  一粒の卵のような一日をわがふところに温めている
                       山崎 方代


 卵が貴重品だったのは、昔の話。今や「物価の優等生」として長く君臨し続けている――と思い込んでいたのだが、石垣島に来て、少し考えが変わった。というのも、いくつものガソリンスタンドで、「たまごプレゼント」という幟がはためいており、ガソリンを入れる度に卵がもらえるのが楽しみになったからである。
 旅行者として来ていたころは、その幟を見ては相棒と「何だろうね、たまごプレゼントって」「卵くれるんじゃないの?素直に理解すれば」なんてのんきに話していた。しかし、こちらに引っ越してきて、スーパーにおける卵(10個入りパック)の価格が200円前後と高いことを知ってからは、「2000円以上ガソリンを入れると卵が4個もらえる」というサービスがすごく嬉しいものに思えてきた。

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 千葉のスーパーでは時々、目玉商品として「1パック99円。お1人様1点のみ!!」とチラシに大きく書かれ、勇んで買いに行っていたものだが、それはあまりに安いような気もしていた。どんどん産卵させられる鶏を思うと、どこか後ろめたい思いがする。石垣島では、大体200円を切ると「おお、安い」という感じで、最安値は128円といったところだろうか。これくらいが普通かな、という気がする。
 「一粒の卵のような」という語にこめられた大切な感じは、もちろん価格のことではなく、卵というある種の全きかたちというものから来ているのだろう。そんな「一日」というのは、どんなよいことがあったのだろう。人に話すと壊れたり損なわれたりするような、そんな面もありそうだ。誰にもみせずに「ふところに温めている」ところが、秘密めいて楽しい。
 卵1個を惜しんで食べる日々、方代の心にちょっと近づいたような気もする。最近では、ホームセンターで50円の「給油券」をもらっても、「あそこのガソリンスタンドは卵をくれないからなあ」「やっぱり卵サービスのあるところで入れようよ」などと話す私たちである。

 ☆山崎方代歌集『迦葉』(不識書院、1985年)
posted by まつむらゆりこ at 11:58| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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