2011年03月11日

ツナ缶

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  缶詰の中の<無音>を開けむとす入道雲の立ちあがる朝
                  栗木 京子


 「とりあえず、ツナ缶があれば」。先日、知人宅で知りあったばかりの青年が何度もそう繰り返すのが可笑しくて、大笑いした。確かに、豆腐や卵、野菜などを炒めるチャンプルーを作るにも、アーサ(アオサ)のおつゆを作るにも、ツナの缶詰は大活躍だ。ツナ缶が常備されていれば、心強いことこの上ない。
 ツナ缶の消費量が全国一多いのは、沖縄県である。「ポーク」と称するランチョンミートの缶詰も沖縄ではよく使われるが、どちらも戦後、アメリカの食文化が入ってきたことで普及したという。高温多湿の沖縄の夏は、食べものが傷みやすい。朝、鍋に火を入れたからと安心していると、夕方には腐敗臭がしていたりする。台風が近づいてくると、パンやおにぎりのほか、カップラーメンなどの保存食が必需品となる。火を使わずに食べられる缶詰類も必須アイテムだから、ポークやツナの缶詰がたちまち沖縄の食生活になじんだのも不思議ではない。
 それにしても、沖縄のお年寄りたちはツナのことを「トゥーナー」と発音するそうだ。「ビーチパーティー」を「ビーチパーリー」、「ウォーター」は「ワーラー」と米国式の発音で覚えているというのが、何とも物悲しいのであった。
 ――というわけで、沖縄とツナ缶は切っても切り離せないものである。私も何となく、島のスーパーにおけるツナ缶の種類の多さを感じてはいたのだが、徐々にその存在感に影響されていたらしい。先日ついに、初めての「箱買い」をしてしまった。
 12缶入りの箱は、沖縄県内でしか販売されていないらしい。こちらに来て初めて見た。それほど大きな箱ではなく、大きめのノートパソコンみたいな感じである。それを抱えてスーパーを出たとき、「ああ、私、けっこう島になじんだかも!」という感慨が湧いてきた。
 この歌は、缶詰という密封された小さな空間の闇や静けさを想像させるところが素晴らしい。日常の視点から離れ、全く違う角度と高さから世界を見せてくれるような機智に魅せられる。自分もこういう歌で人を楽しませることができたらなぁ、と思う。まださすがに「入道雲」は現れていないが、南島には早くもツツジが咲きだした。

 ☆栗木京子歌集『夏のうしろ』(短歌研究社、2003年7月)
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2011年03月04日

本のかたち

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   ペーパーバックの文字追ふ瞳上ぐるとき夜を吸へるその深き
   みづいろ                     笠井朱実


 ごくごくたまに、翻訳された本を読んでいて原書を読みたいと思うことがある。とても好きな作品だと、それがどんなリズムや響きで書かれているのか知りたくなるのだ。例えば、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』や、K.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』がそうだった。マイクル・クライトン『ジュラシック・パーク』は半ば腕試しに読んでみた。ちょうど科学環境部という部署に所属していた時期で、いろいろな科学用語が頻出するのが面白かった。
 吉田健一のエッセイを読んでいて「英語の本が読みたければ、大概のものは翻訳されている。無理する必要はない」なんていう文章に出くわすと、まさに「無理」して読んでいる私は苦笑いするしかない。幼少期を英国で過ごし、後にケンブリッジで学んだ吉田のような人から、「英語というのは絶対に覚えられないものなのであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい」と言われてしまうとがっくりくる。
 それでも懲りずにペーパーバックを買ってしまうのは、この形への愛着もあるだろう。日本の文庫本も愛らしい形状だが、ペーパーバックのばさばさした紙質と厚みは、「中身で勝負!」という感じがして愛すべき存在に思える。空港や機内で、ランチボックスくらいの厚みのあるスティーヴン・キングやグリシャムのペーパーバックを抱えている人を見ると、何だかいいなと思う。
 昨年アメリカへ行ったときは、かなりの年配の人たちがKindleを読む姿を頻繁に見かけ、「ふーん」と驚いた。あの分厚いペーパーバックを数冊持ち歩くことを考えれば、かさばらず重くない電子書籍は、若者よりもむしろお年寄り向きの商品なのだと合点がいった。
 電子書籍はフォントを大きくして読みやすくできるから、普及したら高齢者だけでなく弱視の人もだいぶ助かるだろう。読み上げ機能を加えたら、目の見えない人の読めるものがぐんと増えることも期待できる。記者時代、視覚障害者のための朗読ボランティアをしている人から、「実は週刊誌やエロティックな小説などの需要が多いのだけど、なかなかそこまで出来ないのが実情。ボランティアの人も名作を読みたがって…」という悩みを聞いたことがある。
 この歌は、ペーパーバックという「洋」のものを素材に詠った一首である。短歌特有の湿っぽさがなく、からりとした抒情が魅力的だ。

 ☆笠井朱実歌集『草色気流』(2010年6月、砂子屋書房)
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2011年02月25日

春の海

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  春の海あたたかげにも膨らみて寄るしら波は笑ふがごとき
                               窪田 空穂


 南島には夏と冬しかない、という人もいるが、空の色や光線の具合に春や秋を感じることはある。そして、それぞれの時期にしか採れない自然の恵みは、何よりも季節を感じさせてくれる。石垣島の春の場合は、アーサ(アオサ)である。
 先日、島の知人から「アーサ採りに行かない?」と誘われ、締め切りを山ほど抱えているにもかかわらず、近くの湾まで一緒に出かけた。なにしろ、旅行者として島を訪れていたころから、ずっと気になっていたのが、潮の引いた湾で何かを拾っている人たちの姿だったのだ。相棒と「なに拾ってるんだろう」「私たちも引っ越してきたら拾いに行こうね!」と話していたので、このチャンスを逃すのは惜しかった。
 長靴を履いて、つばの広い帽子をかぶり、ざるを持ったら出発だ。干潮時の湾は、ずいぶん遠くまで歩いてゆける。きれいなアーサの緑は、春そのものといった感じがする。岩に付いている生乾きのものは、ぺりぺりと剝がすことができるのが面白い。窪みにたまった海水の中にゆらゆらしているものの方が、採るのが簡単で砂などが付きにくい。アーサを採りながら、暖かくてやさしい風に吹かれていると、本当にゆったりした心もちになった(締め切りのことは少なからず気がかりだけど……)。
 この歌を読み、「春の海」というものをこれまで知らなかったと思う。「膨らみて寄るしら波」が実感できるほど、海を眺めることはなかった。そもそも、海そのものを知らなかった。ここに暮らすようになり、湾のそばを何度も通っているうちに自然に干潮、満潮の時刻が分かってきた。海の色も日々違っていて、いつも新しい。
 アーサは春先にしか採れない。海からの贈りものだなぁ、としみじみ思う。この贈りものがずっとずっと届くように、海を守らないといけないという気にもさせられた。
 採ってきたアーサは、乾燥させて砂粒や貝殻のかけらを除き、小分けにして冷凍した。残りは冷蔵して、おつゆやてんぷらに。最高の春の味わいである。

 ☆窪田空穂歌集『木草と共に』(1964年10月、春秋社)
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2011年02月18日

花の好きな男

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  遠出すれば必ず花を買う男年々歳々われがさつなり  
                
 一緒に暮らしている相棒は、花の好きな男である。これまでも車で遠出するたびに、花の種や鉢植えを買っては、朽ちかけたアパートの庭に嬉々としてそれを植えて育てていた。私の方は、どうも「みどりのゆび」にはほど遠く、どちらかと言うと枯らす名人かもしれない。
 先日も相棒はブーゲンビリアの鉢をたくさん買ってきて、ご満悦である。わが家は風の強いところに建っているので、雨が降ったり風が吹いたりするたびに、鉢やプランターを軒下に避難させたり、また庭に戻したりと大変そうだ。
 友人たちとの会話でこの人物が出てくるとき、私は照れくさくて長年「例の人」だとか「通い婚の人」とか話していたのだが、ついに友人たちが「それじゃ不便だよ、何かあだ名を付けよう」ということで意見が一致した。ちょうど私がフラメンコを熱心に習っていた時期でもあり、なぜかその場で「フェルディナンド」に決まってしまった。
 ところで、子どものころ読んだ絵本に『はなのすきなうし』がある。スペインに暮らす一頭の牛は花が大好きで、ほかの牛たちがマドリードの闘牛場で勇ましく戦うことを夢見ているのに、うっとりと花の香りをかいでいる……というお話だ。穏やかな気質の、この牛の名前が「フェルディナンド」というのを思い出し、あとで可笑しくなった。わが相棒はウシ年生まれであり、その意味でもなかなかよいネーミングだったということになる。
 あるとき彼に、「君ね、自分の知らないところで、フェルディナンドって呼ばれてるんだよ」と話すと、たいそう驚いている。露文出身の相棒は、ゴーゴリが大好きなのだが、『狂人日記』に、自分のことをスペイン国王「フェルディナンド8世」だと思いこむ下級官吏が出てくるというのだ。これには、私もびっくりした。
 「フェルディナンド」を巡る奇妙な偶然は、珍しい大輪の花のように思える。私は現実の花よりも、こういうものに惹かれてしまうのである。

☆松村由利子歌集『大女伝説』(2010年5月、短歌研究社)
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2011年02月11日

卵料理

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  人間を産んでしまった悲しみよ卵料理はあたたかすぎる
                        
 子どものころ、母の本棚にあった石井好子の『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社)を読むのが楽しみでならなかった。食べたことのない、おいしそうなものがたくさん出てきて、胸がわくわくした。
 早川茉莉さんが編集したアンソロジー『玉子 ふわふわ』(ちくま文庫)には、石井さんの回想「東京の空の下オムレツのにおいは流れる」をはじめ、武田百合子、森茉莉、池波正太郎、東海林さだお、向田邦子といった、おいしいエッセイの妙手が卵料理について書いた文章が収められていて、楽しいことこの上ない。
 この歌は、私のごく初期のものだ。「理が勝っている」と評されることの多い私にしては、わけの分からなさがあって、当時はよいのか悪いのか判断できなかった。歌集の出版記念会のとき、素晴らしい喩の使い手、大滝和子さんがスピーチで、この歌を取り上げ「そうなんです、卵料理はあたたか過ぎるんです」と、妙に力説してくださったのがすごく嬉しかった。
 卵料理はやさしくて、あたたかくて、なつかしい。その半面、卵というものの生命感、それを食べることのかすかな罪悪感、残酷な感じ、奇妙なぐにゅぐにゅ感も抱かせる。そんなあれこれが入りこんだ歌は、私の心の奥底から湧いてきた不透明なものを湛えていて、愛着がある一首なのだった。

☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月)
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2011年02月04日

島に暮らす

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  雨上がり南島深く息を吐き樹下の空気のひいやりとせり 
                 
 南の島に住んでいる、というと、ほとんどバカンスのような日々を過ごしているように思われる。しかし、それは美しい誤解であり、毎日ちゃんと原稿を書いて働いている。
 先週、ウェブマガジンの連載の仕事が2本スタートした。
「石垣島に魅せられて」
 http://kaze.shinshomap.info/series/ishigaki/01.html
「女もすなる飛行機」
 http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/woman/001.html
 「石垣島…」は、島の知られざる魅力を紹介するという趣向である。この連載の取材のために島を走り回っていると、ここに住んでいるのだという気持ちが強くなってきたのは、思わぬ収穫だった。今までは「お客さん」という感じだったが、少しだけ「バガージマ(わが島)」という感覚を味わっている。
 「女もすなる…」は、草創期から現代に至るまでの女性パイロットの話だ。短歌というか文学とはほとんど関係がない。
 どちらもノンフィクションの分野に入るかと思うが、新聞記事の延長のようなスタイルで書いて出稿したところ、両方の担当編集者から「もっと自分を出してください」とNGが出され、へこんでしまった。今まで「筆者は黒衣。客観的に」という意識で記事を書いてきた私にとって、かなり難しい課題である。1回目はようやく通ったが、これから手探りで自分の新しいスタイルを見つけなければならない。
 今年はこの2本だけで、いっぱいいっぱいの気分なのだが、短いエッセイや書評の仕事はまた別の話。頭の切り替えになるし、「書評のために読まなくちゃいけないんだもの」と言いわけをして本が読めるので、楽しい仕事といえる。南島に暮らす楽しみは多いが、まだまだ「仕事第一」の私なのである。
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2011年01月28日

土屋千鶴子さんの歌集

『オフィスの石』

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 働く女は、強くてやさしい。その一所懸命さがいとおしくて、抱きしめたくなってしまう。

  働けど働けどなほノルマ増えオフィスの夜をしのび泣く石
  新人に情報公開説くまひる〈透明で公正な県政〉の夢
  「あいさつは明るく」といふ通達のギャグかと思ふ夜中のオフィス


 この歌集の作者は、県庁に勤めている。ふつうの企業以上に、前例や慣行の束縛が強く、仕事量も多いだろう。1首目は自らを「しのび泣く石」に喩えたところが泣かせる。2首目の「夢」、3首目の「ギャグ」には、作者自身の味わっている苦さがあふれている。

  真夜中もやつてるけれどコンビニぢやないのよここは救急病院
  生後二十日のわが児がベビーベッドから落ちたと泣きぬ落としたでなく
 

 行政の仕事はいろいろな現場に足を運ぶ。少し新聞記者の仕事とも似たところもあるかもしれないが、もっと当事者に近い。感情的になりそうな部分を敢えて抑え、やんわりと皮肉を利かせているバランス感覚がいい。この情理のほどよさこそ、作者の特性ではないかと思う。

  研修に改めて読む日本国憲法はほう旧仮名遣ひ
  芯深く疲れた夜は珈琲も笑顔も薄いお店にゆかう
  繊細な線で囲まれカンヴァスに裸婦は牛乳よりも冷えゐる

 
 情理のバランスが、1首目のようなユーモアというか余裕を生んでいる。2首目の「疲れ」には共感する人も多いだろう。3首目は見られ描かれる対象である「裸婦」へのまなざしが鋭い。女性性への批評と読んでもよい。
 これほど知的で冷静な作者が、恋を詠うとき、それはそれは伸びやかで瑞々しい心がほとばしる。

  お互ひの名刺の意味は消失すはだかのふたりに滝のよろこび
  毛糸玉ころがるやうなやさしさに名前呼ばれし雪ふる朝(あした)
  わたくしが誰かの妖精だつた頃木の実を降らす風と暮らした


 もう一度恋をしたくなるような、激しくも美しく、かなしい営みが胸を打つ。きりきりと働く日々だからこそ、こんな恋ができるのかもしれない。
 最近、女性の職場詠が増えていて、とても嬉しい。いろいろな現場の歌が私は好きだ。働くという当たり前の、けれども常に真剣勝負で待ったなしの現場。人生そのものの熱さが、そこにはある。

☆土屋千鶴子歌集『オフィスの石』(短歌研究社、2011年1月)
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2011年01月21日

帽子の力

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  新宿に赤き帽子を選びおり別の私のための帽子を
                     草田 照子


 石垣島は小さな島だが、おいしいパン屋さんがいくつもある。ここ数年でぐんと増えたようだ。2003年秋から毎年訪れてきたが、初めのころには、あまりパン屋さんを見かけることはなかった。相棒と移住計画を話し合うようになって、私は「引っ越してもいいけど、パン屋さんがないのはさみしいよぉ〜」とごねるほど、パンに執着心があった。
 おいしいパン屋さんがなければ自分で開こうか、などという野望も抱いていたのだが、引っ越してきたら、何のことはない、素敵なお店がいくつもあった。その一つが、美しい景観で知られる川平湾の近くにある「南国パン屋 ピナコラーダ」(http://pclkabira.exblog.jp/)である。このお店には、帽子や小物が並べられたコーナーがあって、とても魅了される。お姉さんがパンを焼き、妹さんが帽子を作っているという、かわいいお店である。
 最初にパンを買いに行ったときには、帽子のコーナーに惹かれつつ、我慢してパンだけ買って帰った。しかし、次のときには、メロンパンが焼けるのを待つ間、ついに誘惑に負けてベレー帽を注文してしまった。オーダーしても値段は変わらないというのだから、本当に魅力的だ。この帽子屋さんの名前は「couni(コユニ)」(http://couni.ocnk.net/)、ネットで買い物もできます。
 この歌の「赤き帽子」を選ぶ作者は、少し元気になりたい気持ちを抱いているようだ。赤い帽子を小粋にかぶった「別の私」は、たぶん現実の自分よりも、ちょっとばかりお茶目で明るいのではないかと思う。帽子には、そんな力がある。
 与謝野晶子がパリを訪れたときの詩に、「巴里より葉書の上に」という短い作品がある。

  巴里に着いた三日目に
  大きい真赤な勺薬を
  帽の飾りに付けました。
  こんな事して身の末が
  どうなるやらと言ひながら。

 初めてパリを訪れた興奮が、帽子に真っ赤な飾りに象徴されていると感じる。つば広の帽子をかぶった晶子の写真が、私は大好きである。自信に満ちて、美しい。
 帽子をかぶる歓びというものは、確かに存在する。

☆草田照子歌集『天の魚』(本阿弥書店、1992年10月)

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2011年01月14日

ムーチー

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  餅のかび百合の根などのはつかなる黄色もたのし大寒の日々
                        佐藤佐太郎


 1月11日は「ムーチー」の日だった。旧暦の12月8日である。
「ムーチー」は沖縄で「餅」のこと。といっても本土の餅と違い、もち粉を練って蒸し、月桃の葉で包んだものをそう呼ぶ。正確には「鬼餅=ウニムーチー」という。五月の節句に食べるちまきに、ちょっと似ている。この餅で鬼退治、厄払いするという言い伝えがあり、健康を祈願する行事とされる。
 これはもともと沖縄本島の行事だったが、次第に八重山でもムーチーが作られるようになったらしい。写真は、ご近所さんの手作りのムーチーである。昔はシンプルな白か、黒糖を混ぜた茶色しかなかったが、最近はけっこうカラフルなのだという。紫色のムーチーは紅イモフレークを使うからとか。私は月桃の葉の香りが好きで、ぱくぱく食べてしまう。
 この歌の「餅」は、本土のふつうの餅を指すのだろう。「餅のかび」というのが実になつかしい。今の市販の餅は真空パックになっているけれど、子どものころの餅はすぐにかびが生えるのが常で、年が明けてしばらくすると、母は瓶に水を張って水餅にしていた。それでも怪しげな黄色や青、黒のかびが生えてきて、食べるときはその部分をこそげ取って、焼いたり煮たりしたものだ。あの「黄色」は確かに「はつかなる」色だったなあと思う。
 もうすぐ「大寒」である。沖縄でも最も気温が低くなる時期で、ムーチーの日前後の寒さを「鬼餅寒(ムーチービーサ)」と呼ぶ。千葉から引っ越してくるとき、「もう暖房器具は要らないね」と、灯油ストーブやこたつは処分した。しかし、「もしかしたら…」と持ってきた遠赤外線ヒーターが、こんなに役立つとは! 島の若い設計士さんが「1年のうち、10日くらいはこたつが欲しい日がありますよ」と言っていたのは本当だった。

☆佐藤佐太郎歌集『冬木』(1966年8月、短歌研究社)

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2011年01月07日

お正月

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  桜咲いて沖縄(うちなー)正月賑やかに公設市場に豚肉(ぶた)を購う列                       渡 英子

 初めて島でお正月を迎えたが、別にどうということはなかった。スーパーのおせちコーナーはかなり地味である。ご近所さんがお手製の黒豆を分けてくださったので、あとはお餅やきんとん、かまぼこでお正月気分を味わった。大みそかまで原稿を書いていたので、思いっきり手抜きのお正月である。
 おせちコーナーがそれほどにぎやかでない理由のひとつには、旧正月を祝うから、ということもあるらしい。この歌の「うちなー正月」は「旧正月」のことと思われる。「桜」は、ソメイヨシノではなく、1月から3月にかけて花を咲かせるヒカンザクラである。作者は夫の転勤で那覇市に移り住んだことのある人だ。旧暦の正月の時期には、沖縄本島の公設市場は賑わうのだろう。石垣島の公設市場はどうなのか、ウォッチしてみたい。
 ところで、石垣島の冬の風物詩といえば、サトウキビの花である。ちょうど、暮れからお正月にかけて咲く。いつだったか観光で冬に石垣を訪れ、最初にサトウキビの花を見たとき、私と相棒は「ふーん、島にもススキがあるんだね」と言い合ったものだ(赤面……)。花が咲く時期が収穫時期でもあるので、島の製糖工場の操業開始は12月である。工場の煙突から勢いよく白い煙がもくもくと出ていると、「あー、冬だ」と思うようになった。

☆渡英子歌集『琉球 レキオ』(2005年8月、ながらみ書房)
posted by まつむらゆりこ at 09:21| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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